主の祈り

カテキズム2834「わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください」(4)

2026年3月18日

「今日の糧をお与えください」(4)― 祈りと働きの一致

ラジオ・マリアをお聴きの皆さん、こんにちは。今日も主の恵みによって、母なる教会のカテキズムの解説を続けていきます。前回は2834番に入りました。ここ数回、主の祈りの第四の願い――「今日、私たちに日ごとの糧をお与えください」――を扱っています。今日の箇所は短いですが、中身が濃く、実生活への適用もとても大きいところです。まず全文を読みます。

「2834。聖ベネディクトの戒律にある『祈れ、そして働け(ora et labora)』。すべてが神にかかっているかのように祈り、すべてが自分にかかっているかのように働きなさい。自分の務めを果たした後、食べ物は父からの賜物となる。だから、それを願い求め、感謝するのはよいことである。これが、キリスト者の家庭における食前の祈り(食卓の祝福)の意味である。」

ここでまず出てくるのが、非常に有名な言葉です。聖ベネディクトの戒律の、いわば標語のような言葉ですね。ベネディクト会修道士の規則に由来するものですが、形を変えながらカトリック教会全体の霊的遺産になっています。あの「ora et labora」、祈り、そして働きです。まるで鷲の二つの翼のようなものです。私たちの人生には、行動する次元と観想する次元の両方があります。もちろん召命やカリスマによって配分は違いますが、誰にとってもこの二つは必要です。

「観想的召命」と言われる人であっても、注意が必要です。観想的生活の中にも、働きの次元は必ずあります。最も観想的な修道会でも、明確に労働の時間があります。反対に、行動中心の仕事に全面的に携わる人も、観想の次元を持たなければなりません。人間のうちにある「活動の魂」と「観想の魂」、この二つが釣り合っていることがとても大切です。

西方の私たちは、どちらかといえば活動面を強調してきました。東方は観想面をより強調してきました。教会の「二つの肺」という話にも通じます。ヨハネ・パウロ二世が語った、東方教会と西方教会の二つの肺です。ラテン教会、つまり西方の伝統では活動面が強く、だからこそ19世紀に貧しい人々の支援や教育のための多くの修道会・カリスマが生まれました。これに対して東方には、教父たちのより観想的な伝統、三位一体の神秘へ深く入っていく伝統があります。この東西の二つの肺も、活動と観想という二つの魂と深く関係しています。

福音書を読むと、主が「どちらか一方に偏る危険」を示す場面がたくさんあります。たとえば「主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るのではない。父の御心を行う者が入る」という言葉。これは、口では祈っていても、実際には父の御旨を行わないなら、活動と観想のバランスが崩れているということです。

よきサマリア人のたとえもそうです。礼拝に向かう人が、打ち倒されていた人を助けずに通り過ぎてしまう。あるいはヤコブの手紙の「貧しい人に『神の祝福がありますように』と言うだけで助けないなら、何の役に立つのか」という指摘。祈りの言葉が言い訳に変わることさえあります。極端になると、霊的なものを“盾”のように使って、実際に必要な行動を避けることになる。これは霊性の冒涜です。袖をまくって、必要な人を助けるべきときに、そうしないために「祈っています」でごまかすのは違います。神はすでに、取り組むための光を与えておられるからです。

同時に、逆の危険もあります。福音には、主が活動主義への警告を与える箇所もあります。実際、私たちの文化では活動主義が大きな避難所になりがちです。自分の内面に潜ること、主と一対一で向き合うことから逃げるための隠れ家になるのです。家庭でもよくあります。「やることが多すぎる」と言って仕事に逃げ、配偶者との大切な対話を避ける。問題があると分かっているのに、向き合わないために仕事へ避難する。おそらく多くのキリスト者が、「自分は活動過多で、主のために明確に確保した時間が少ない」と感じるでしょう。

もし今ここでリスナーにアンケートをしたら、多くの方が「祈りと働きの天秤は、活動側に傾いている」と答えるはずです。しかも活動主義に傾く人は、実は時間の使い方が実らないことも多い。「忙しい」と言いながら、あとでテレビや他のことに時間を流してしまう。活動主義の特徴の一つは、過剰に忙しさへ身を投じるのに、実際には実りが少なくなることです。これはしばしば起こります。

逆側への主の警告として有名なのが、マルタとマリアの箇所(ルカ10・38以下)です。イエスが村に入られ、マルタがもてなし、妹のマリアは主の足もとに座って御言葉を聴いていた。マルタは家事に追われ、「主よ、妹が私だけに働かせているのを何とも思われないのですか。手伝うように言ってください」と訴える。すると主は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことで思い悩み、心を乱している。しかし必要なことは一つだけ。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げることはできない」と答えられる。

「まず神の国を求めなさい。そうすれば他のものは添えて与えられる。明日のことまで思い悩むな」という言葉も同じ方向です。活動主義に対して、観想の中心性を示しています。

この箇所については、こう反論したくなるかもしれません。「でもマルタが夕食の準備をしなければ、イエスもマリアもマルタ自身も食べられないでしょう」と。確かにそうです。マルタも主を深く愛する熱い魂です。台所と食卓を行き来して、愛ゆえに働いています。問題は、働く中でキリストの言葉を聴かなくなってしまったことです。イエスの叱責は「働きすぎ」そのものではなく、「キリストのための働きが、逆にキリストから心を遠ざけてしまった」点にあります。

つまり、聖なることであっても、制御されない思い煩いは起こりうるということです。神のために多くを行う修道者にも起こりえます。活動に飲み込まれると、神の声を聴かなくなる。「キリストに仕えるために、キリストとの対話を中断してしまう」。これが問題です。

たとえば家の主人に頼まれた召使いが、命令を受けると急いで実行に向かい、その作業に没頭しすぎて、呼ばれても聞こえなくなるようなものです。「これをしなさい」と言った本人の存在が、終わるまで見えなくなる。これがマルタ的な魂の状態です。ここを誤って、「マルタ、そんなに気を遣わなくていい。軽く何か作れば十分だった」という話だと解釈してはなりません。そうではなく、神の現存から切断される働き方が問題なのです。

主の足もとに座るマリアの徳は、「何もしない」ことではありません。イエスは「働かないあなたは偉い」とは言っていません。マリアの徳は、働く中で神とのつながりを失わないこと、自分を通して主が業をなしておられると自覚していることです。私たちはしばしば、仕事で大切なのは実務的な処理能力だけだと考えてしまいます。たとえば司教である私自身も、「実際に問題を処理してくれる有能さ」だけを求める誤りに陥りえます。しかし、ただ“夕食を用意する”ことだけが重要なのではない。神の現存を求め、神への愛によって行い、神の恵みがその人のうちに働くことにも価値があるのです。

イエスはマルタに「よく働いたこと」を責めたのではなく、「神の現存のうちに働く心」を失ったことを責めました。彼女は活動主義に身を任せ、神への信頼と現存感覚を奪われてしまったのです。

今日はこのテーマを深めたいと思います。ご覧の通り、聖ベネディクトの「祈れ、そして働け」は、「今日の糧をお与えください」を解く上で非常に重要だからです。そしてこの言葉の後に、カテキズムは別の有名な一句を引きます(誰の言葉か明示していませんが、聖イグナチオなどに帰されます)。「すべてが神にかかっているかのように祈り、すべてが自分にかかっているかのように働け。」これは、*ora et labora*を生きるための実践的助言です。「神に願い、同時に手を動かす」ということですね。

ただし、この言葉も誤解されることがあります。たとえば「神のことは神、世のことは世」と切り離してしまう誤読に似ています。「今は台所だから、イエスの声を聴く時間ではない。祈りは夜にまとめてやればいい」と考えるなら、それは祈りと行動の断絶です。これは誤りです。意志の力だけで働き、終わってから神に祝福してもらう、というペラギウス主義的な発想にもつながります。そうではありません。

たとえば「結婚相手は自分で決めて、最後に祭壇へ連れて行って神に祝福してもらう」という考え方は間違いです。結婚召命を見極める交際の段階から、すでに神は光を与えておられます。識別が終わってから秘跡に入るのであって、交際期間が“非宗教的”な時間になるわけではありません。

正しい理解はこうです。神の恵みは自然的能力を打ち消さない。むしろ恵みを受けると、働きが減るのではなく、もっと働けるようになる。神の恵みは私たちの資質を通して働き、自然の賜物を最大限に引き出します。「神が恵みを与えるとき、人は汗を流す」という言い方があります。恵みは、努力の外側で起こるのではなく、努力のただ中で働くのです。

ですから「人間が50%、神が50%」という足し算ではありません。人間は人間の次元で100%を尽くし、同時に神は別の次元で、支え、導き、100%働いておられる。恵みは自然を壊さず、自然を高めるのです。

カテキズムは並行箇所2428も示します。「労働において人は、自分の本性に刻まれた能力の一部を発揮し、適用する。労働の第一の価値は、労働の作者であり受け手である人間自身にある。労働は人間のためにあり、人間が労働のためにあるのではない。」これは大切な視点です。だから労働の主な価値は成果物よりも労働者にあります。ヨハネ・パウロ二世も、労働の中心は物質の変形だけでなく、人間自身の変容だと言いました。

ガンジーが挙げた七つの社会的罪の一つに「労働なき富」がありました。これは現代において非常に重い社会的罪です。いわゆる投機的な一攫千金、金を回して簡単に儲けるような構造です。なぜ罪なのか。労働の第一価値はパンそのものではなく、“パンを作る人”の形成にあるからです。「今日の糧をお与えください」と祈るとき、物質的なパンを願うのはもちろんですが、より深いところでは、働きによって私たちが成熟し、成長し、神から与えられた賜物を開花させることを願っているのです。労働なき富は、この本質を理解しないがゆえに反キリスト的です。

だから私たちは、日ごとの糧を願うとき、同時に「働く召命」を願っているのです。働くことへの愛を与えてください、と。私の働きが実り豊かになりますように。神の国の実現のために働くことと、日々の努力とが一つになりますように。聖アウグスティヌスは「愛があれば労苦は労苦でなくなる。たとえ労苦であっても、それすら愛するようになる」と語りました。愛があれば、労働の否定的側面は姿を変えます。マザー・テレサが「イエスと共に、イエスのために、イエスへ向かって働く。結果は私のものではなくイエスのもの」と言ったとき、まさにこの地平に立っています。

だからこそ、私たちはそれを願い、感謝するのです。願うことで賜物への自覚が深まり、感謝することで「自分は働いたが、働く力そのものは恵みとして与えられた」と悟ることができます。

最後に、この箇所は食卓の祝福の大切さに触れます。意味は二重です。第一に、食べ物を与えてくださった神をほめたたえ、感謝すること。第二に、食べ物と、それをいただく私たち自身を神が祝福してくださるよう願うことです。祝福は物にだけ向けられるのではなく、最終的には人に向けられます。魔術的に理解してはいけません。常に人間への恵みとして理解するのです。

要するに、私たちは食べ物を与えてくださる神をたたえ、そしてこの食べ物と、それを受ける人々――食べ物を持たない人々も含めて――を神が祝福してくださるよう祈るのです。

子どもたちを食前の祈りに参加させることは、とても大切です。短い祈りや覚えやすい祈祷文を使って、皆が関われるようにするとよいでしょう。そしてもちろん、これは主の祈りにしっかり結びついています。食卓の祝福は、「今日、私たちに日ごとの糧をお与えください」を具体的に生きる実践なのです。