私たちの日毎の糧を今日もお与えください
ラジオ・マリアをお聴きの皆さん、こんにちは。今日も主の恵みによって、母なる教会のカテキズム解説を続けていきます。今日は主の祈りの新しい願いに入ります。
主の祈りには七つの願いがあります。すでに最初の三つを説明してきました。この三つは、いわば「願いのため息」のような性格を持っています。
「み名が聖とされますように」
「み国が来ますように」
「みこころが行われますように」
これらは、直接神ご自身を対象とした願いです。
それに対して後半の四つは、神に具体的な賜物を願う祈りへと下っていきます。つまり、「み名」「み国」「みこころ」という神ご自身を願う祈りから、イエスが教えてくださった、私たちのキリスト者の生活に不可欠な具体的な恵みを願う祈りへと進んでいくのです。
カテキズム2828番からです。「今日、私たちに日ごとの糧をお与えください」。
まず今日は、この最初の表現、「お与えください(ダノス)」という動詞が何を含んでいるかを見ていきます。
「お与えください」。
これは命令形です。
「すべてを父に期待する子どもたちの信頼は美しい。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる。すべての生きる者に時にかなって食物を与えてくださる。イエスはこの願いを教えてくださる。この願いによって、私たちは父があらゆる善を超えて善であることを認め、父をあがめるのである。」
私たちが神に向かって、とても素直に直接「与えてください」「ください」と言うことが、どれほどのことかに気づく必要があります。もちろん祈りは複数形ですが、ここで言いたいのは単数か複数かではありません。むしろ、私たちがそこまでの信頼を持ち、そこまで大胆になっているか、ということです。
主の祈りで「…と言う勇気を与えられています」と言いますが、本当に大胆です。神を「父」と呼ぶだけでなく、「与えてください」と願うのです。お願いしているのか、ほとんど言い切っているのか、その両方のようでもあります。願いではあるけれど、非常に大きな大胆さを伴っています。
この点を理解するために、カテキズムは2778番を参照させます。そこで語られていたのが「パレーシア(parresía)」、すなわち大胆な信頼です。
このキリスト教特有の言葉「パレーシア」は、まっすぐな単純さ、子としての自覚、喜びに満ちた確信、へりくだった大胆さ、愛されているという確信を意味します。
使徒たちが「パレーシアをもって」宣教したと言われるのもそのためです。驚くほど大胆でした。自分勝手にしているのではなく、主が求めておられることをしているという意識があったからです。神に遣わされているという確信がある人は、恐れを越えて大胆になれる。これがパレーシアです。へりくだった信頼です。
そして今、この主の祈りの願いにも同じことが当てはまります。
「今日、日ごとの糧をお与えください」と、神にこの信頼で言うこと。
この「与えてください」には、パレーシアの特徴がすべて含まれています。まっすぐな単純さ、子としての自覚、喜びに満ちた確信、へりくだった大胆さ、愛されているという確信。
特に最後の二つに目が向きます。愛されているという確信がなければ、あんなふうに安心して神のもとへ行き、「与えてください」とは言えません。
これは、たとえば子どもが台所に行って母に「あれちょうだい、これちょうだい」と言うのに似ています。朝起きた子どもが、朝食も食事も用意されることを当然のように信じている、あの信頼です。母だから、父だから、必ず用意してくれると知っている。その同じ確かさで、私たちも神の前に立つのです。私は愛されている、だから全面的に信頼する。へりくだった大胆さです。
外から見れば、「なんて図々しいんだ」と見えるかもしれません。「神に向かって命じるように願うなんて」と。しかし、その二人の関係を知らない人にはそう見えるだけです。
カテキズムは、まさにこの点に気づかせようとしています。主の祈りで「…と言う勇気を与えられています」と言うとき、私たちは神と話しているのだという事実にどこまで気づいているでしょうか。しかも、ただ許されているだけではなく、イエスご自身がこの話し方を教えてくださったのです。このパレーシア、この信頼、この大胆さをもって。
だからこれは、私たちを本当に打つべきことです。神は裏切らない、神はそこにおられる、その意識を前提にしています。
以前、こんな証しを聞いたことがあります。ある父親が、自分には信仰の疑いも神への不信もあると感じていたのですが、3歳の息子と日曜の午後に居間で遊んでいたときに心を打たれたという話です。父親は床に寝転び、子どもはテーブルに上って、そこから空中に飛び込もうとする。父親の腕はまだ構えていないのに、子どもは自分が飛べば父が必ず受け止めると知っている。子どもは大胆に見えるけれど、父が腕を差し出すと確信しているのです。
その父親は言いました。「この子は、私が受け止めると分かっているから、平気で身を投げ出す。私を完全に信頼している」と。
私たちも同じように、無条件で愛してくださる父なる神に信頼しなければなりません。だからこそ、イエスは「お与えください」と祈るよう教えてくださったのです。
しかしこの「お与えください」は、「もらえないかもしれないから不安で頼む」という意味ではありません。そうではなく、あまりに確かに与えられると知っているから、子どもが台所で当たり前に「ください」と言うように願うのです。
これがこの願いの意味への導入です。何を願っているかという内容そのものに入る前に、まず「このように願える」ということ自体が、私たちを揺さぶるべき点なのです。このような確信をもって願えること、そのこと自体が私たちの心を動かすはずです。
信頼です。さて、カテキズムは続けてこう言います。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」(マタイ5:45)。
さらに、
「すべての生きる者に、時にかなって食物を与えられる」(詩編104:27)。
この「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせる」という表現は、この願いの意味を深く気づかせてくれます。
よく考えてみてください。神は「求めた人にだけ与え、求めない人には与えない」という方ではありません。むしろ不思議なのはそこです。神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、願った人にも願わない人にも食べ物を与える。
では、なぜ私たちは願うのでしょうか。
もし神が願う人にも願わない人にも与えてくださるなら、なぜ「与えてください」と祈るのか。
もちろん、これは今後さらに丁寧に説明されるでしょうが、ここで分かるのは、願うのは「神が与えてくださっていることに気づくため」だということです。これが一番大切です。
神は無条件に善であり、無条件に愛しておられます。神は人が善いから、悪いからという理由で愛するのではありません。ふさわしさがあるから愛するのでもありません。私たちが何の功績も持たない前から、すでに愛しておられる。神は「あなたが何をしたか」ではなく、「あなたが存在している」ということゆえに愛してくださる。神の愛は無条件です。子として、人として愛してくださるのです。
その上で、なお神が「求めなさい」と言われるのはなぜか。
「今日、日ごとの糧をお与えください」と祈るよう教えられたのは、これはへりくだりの学校だからです。
ここでも、最も分かりやすい親子の関係で考えてみましょう。子どもが台所に行けば、母が食事を用意してくれていると安心している。この信頼は本当に素晴らしいものです。
でも同時に、その信頼は、受け取る側が気づかなければ大きな忘恩にもなり得ます。母の「いつでも与える姿勢」は、私が当然に持つ権利ではありません。無償の愛です。だからこそ私は「お願いします」「ありがとう」、そして時には「ごめんなさい」を学ぶ必要がある。
たしかに親は私を見捨てない。いつもいてくれる。でも注意しないと、私は親の賜物を、愛の源への感謝なしに受け取ってしまうことがある。賜物だけを受け取り、その背後にある愛を受け取らない。そうなると、家庭の中でさえ利己的な関係が生まれてしまう。
これは神との関係でも同じです。神は今日も太陽を昇らせてくださった。この朝の光も、あなたのために与えられたものです。太陽はあなたのためにも昇る。けれど、それに気づかず、当たり前に受け取るだけで、願いもしない、感謝もしない、ということが起こり得る。
だから、感謝するためにも願うことが必要です。願うことは、私に賜物への気づきを与え、後に感謝へ導いてくれます。願ったことのない人が感謝するのは難しい。とても難しいのです。
ゆえに、福音が「主は善人にも悪人にも太陽を昇らせる」と語る――つまり、神は無条件に与え、私たちが善いからではなく、神がそのような愛の方だから与えてくださる――その真理があるからこそ、なお「求めなさい」と言われるのです。なぜなら、願うことは私たちをへりくだらせるからです。
確かに、自己中心的に願うこともあり得ます。しかし、願うという行為そのものを見れば、それ自体はへりくだりの条件です。へりくだる人は願います。自分のものではないと知っているからです。
子どものころ教えられましたね。「何て言うの?」――「お願いします」。
それは「これは自分の当然の所有ではない」と分かっているからです。すべて自分のものだと思っている人は願いません。ぞんざいに入ってきて当然の顔をする。でも、自分のものではないと知る人は「お願いします」と言うのです。
私たちの大きな貧しさは、受け取っていながら、その背後にある愛の源に気づかないことです。これが最も深刻です。
以前にも話した例ですが、とても分かりやすいので改めて挙げます。
ある日、花の配達員が家に来て、美しい花束を届けてくれたとします。驚き、うれしくなり、配達員にチップまで渡して、花束をリビングの花瓶に飾る。部屋は見事に華やぐ。
そこへ訪問客が来て言う。
「すごくきれいな花だね。誰にもらったの?」
「分からないんだ。誰がくれたかは知らない」
「カードはついてなかった?」
「カードはあったけど、捨てちゃった。花だけ花瓶に入れたんだ」
すると相手は驚いて言う。
「え、どうして? いちばん大事なのは、誰がどんな思いで送ったかじゃないか」
とても単純な例ですが、神との関係で私たちに起きていることをよく表しています。私たちは神の物質的な賜物だけを受け取って終わってしまうことがある。
でも本当に大切なのは花束そのものより「カード」です。つまり、誰が送ってくれたのか。あなたを愛しているから送ってくれた、その事実です。
「誰かがあなたに恋しているのに、あなたはそれに気づいていない」――そんなことがあり得る。けれど実際、私たちは神に愛されているのです。
だからこそ、この出発点にある利己心、この大きな無自覚を癒やすために、イエスは「願いなさい」と言われます。願うことで、私たちは「自分は愛されている」と気づくからです。
「私はあなたを愛している。あなたを日々取り囲むそのすべての恵みは、あなたを愛する神の贈り物だ」。
だから願いなさい。願うことで、あなたは「当然与えられる権利があるもの」を受け取っているのではなく、愛から与えられた賜物を受け取っているのだと分かるようになるのです。
これが、したがって…
…したがって、2828番のこの願い――命令形で語られるこの動詞「お与えください」――の背後にある教育が見えてきます。
「今日、私たちに日ごとの糧をお与えください」。
私たちは繰り返し確認してきました。この「お与えください」という願いは、私たちが日々神の賜物に囲まれていることに気づかせてくれます。毎日の暮らしの中で、私たちはある愛の対象として生かされていますが、その愛に気づいていないことが少なくありません。
言い換えるなら、この主の祈りの願いには教育的意図があります。つまり、「自然なもの」の背後に、超自然的な賜物があることに気づかせる教育です。
私たちはふつう「自然の秩序」と「超自然の秩序」を区別します。その区別自体は正しいし、神学的にも両者を混同すると問題が起きます。ここでその議論に深く入るつもりはありませんが、大事なのは、自然と超自然は、互いに無関係な二階建てのような別世界ではない、ということです。
キリスト者であるとは、よく考えてみると、超自然の賜物を、まるで自分にとって自然であるかのような信頼をもって生きることです。たとえば祈りの生活、神との関係――それ自体は超自然ですが、生活に深く溶け込んで、自然に息づいていく。
同時に、キリスト者であるとは、自然な日常を超自然的に生きることでもあります。夜に眠って休むこと、朝が来て日々の務めに向かうこと、こうした当たり前の営みさえ、超自然と結びついています。神がくださった賜物を用いて生き、そこを通して永遠の救いへと導かれていくからです。食べ物も、呼吸する空気も、健康も、病も、病を受け入れることさえも――自然なすべての中で、超自然の次元がかかっているのです。
だから、少し言葉遊びをすれば、キリスト者とは「超自然を自然に生きる人」であり、同時に「自然を超自然化して生きる人」です。
この「お与えください」は、私たちが自然だと思っている多くのことが、実は超自然的でもあることに目を開かせます。究極の源は神だからです。
詩編120(121)を思い出してください。神をイスラエルの守り手として歌う詩編です。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」
ここで大切なのは「目を上げる」ことです。
あなたが豊かな谷にいると想像してください。野菜が実り、花が咲き、恵みに満ちている。もちろん、それを喜ぶのはよいことです。しかし、そこで目を上げる必要があります。その肥沃さは山から来る水によって支えられている。山の雪が解けるからこそ、谷は実りを得るのです。
「山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。」
ところが私たちは、目を上げずに生きてしまうことがある。ちょうど馬具の目隠しをつけられたロバのように、目の前数メートルしか見ないで進む。
ロバに目隠しをつけるのは、怖がらせず、荷を引かせるためです。「よそ見せず前へ進め」というわけです。
しかし私たちの場合、その目隠しは外からつけられるだけでなく、自分でつけてもいます。消費主義の文化の中で。
「消費して、黙れ。目隠しをつけて、先を見ず、問いを持つな。」
「この恵みはどこから来るのか」と問わないように、鼻先しか見ないようにされる。
「消費して、黙れ。問いを持つな。」
これがこの文化の目隠しです。
もしある日、「人生の意味は何か」「これはどこから来て、私はどこへ向かうのか」と問い始めたなら、「テレビでも見て気を紛らわせなさい。考えすぎるな」と言われる。
この無超越の哲学――何も問わない姿勢――に対して、「今日、日ごとの糧をお与えください」という願いは、詩編120(121)への招きです。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足がよろめくのを許されない。あなたを守る方はまどろむことがない。イスラエルを守る方は、まどろむことも眠ることもない。主はあなたを守る方。主はあなたの右にいて、陰となる。昼、太陽はあなたを撃たず、夜、月もあなたを撃たない。主はすべての災いからあなたを守り、あなたの魂を守られる。主は、あなたの出で立つのも帰るのも、今よりとこしえまでも守られる。」
この詩編は本当に圧倒的です。主の祈りのこの願いが何を意味するかを、驚くほど正確に示してくれます。
私たちには守り手がいる。守り手がいるのです。神が一人ひとりに与えてくださる守護の天使さえ、その父なる摂理のしるしです。聖なる天使たちについて私たちはあまりに語らなさすぎますが、天使の存在はカトリック信仰の一部であり、はっきり言えば教義そのものです。
私たちが天使についてほとんど語らないという事実自体、自然の賜物と超自然の賜物が実際には深く重なり合っていることへの自覚の薄さを示しているのかもしれません。天使も日ごとの糧も、どちらも神の愛のしるしなのです。
ではこの第一点をまとめましょう。
この最初の願い「お与えください」は、教育的な意図をもって語られています。目的は、私たちがこの人生で自然に受け取っているものすべての中で、神の愛の対象として生かされていることに気づくことです。自然の背後には、神の超自然的な愛が隠れています。
そして次に2829番で、この「お与えください」の説明はさらに深められます。
「さらに、『今日、私たちに日ごとの糧を…
…日ごとの糧。
これは契約の表現です。私たちは神のものであり、神は私たちのものでもある。しかもこの「私たち」は、神をすべての人の父として認め、すべての人の必要と苦しみに連帯して願う「私たち」です。
この短い箇所には、二つの土台となる主張があります。
第一に、「お与えください」という大胆な信頼は、神が私たちと結ばれた契約の表現だということです。もし神が私たちと契約を結んでくださらなかったなら、神を「父」と呼ぶだけでも驚くべきことなのに、こんな信頼で「お与えください」と願うなど到底できません。
ここで言う契約は、シナイの契約だけを指すのではありません。とりわけキリストにおける契約です。
「あなたたちは私の民、私はあなたたちの神である。」
最後の晩餐の後、イエスが父にささげた祈りにもあります。
「この人々は、あなたが私に委ねてくださった者です。彼らは私のものです。」
またイエスは言われました。
「エルサレム、エルサレム。めんどりがひなを翼の下に集めるように、私は何度あなたを集めようとしたことか。」
これが神の私たちへのまなざし、契約の心です。私たちを神の子とすること。
そして、神が私たちの神であるというだけでなく、契約においては「神は私たちのものである」とも言える関係が生まれます。もちろんこの表現には危険もあります。神は誰かの私有物ではないし、神を都合よく利用する危険もある。そこは十分自覚すべきです。
それでも、この言葉には真実があります。深い親密さの関係では、「これは私の子」「私の父」「私の夫、私の妻」と言います。所有の乱用ではなく、愛の結びつきとして。
同じように「私の神」と言うこともできるのです。表現の危険を超えて、そこに大きな真理があるからです。
神はその愛をあまりにも無条件にしてくださったので、私たちは「この愛は契約によって保証されている」と感じられる。実際、保証されているのです。
「たとえあなたが私を忘れても、私はあなたを忘れない。」
これは愛の契約です。神が決して裏切らない契約。これがキリストにおける契約に刻まれています。
「たとえあなたが不実でも、神は常に真実であり続ける。」
だから私たちは言えるのです。「私たちは神のもの、神は私たちのものだ」と。
ここにもう一つ、「お与えください」と大胆に言える理由があります。
「この人は家の者みたいだ。なんという信頼で願うのだろう」と思うほどの近さです。
まるで神と私たちの間に、こんな約束があるかのようです。
「あなたは私のことを大切にしなさい。私はあなたのことを大切にする。あなたは神のこと――愛すること、忠実であること、仕えること――に心を向けなさい。私はあなたに日ごとの糧を与え、太陽を与え、命の賜物を与える。自分のことばかり心配して、自分が賜物の作者であるかのように生きるな。それは私に任せなさい。あなたは私が委ねたことをしなさい。兄弟を愛し、仕え、罪と利己心を乗り越えなさい。」
これは愛の契約です。そしてこの契約の一部として、私たちは「今日、日ごとの糧をお与えください」と祈ることで、その約束を神の前に思い起こすのです。
「主よ、あなたは私がこれを願うよう望まれました。あなたと私の間に結ばれた愛の契約を、私が思い起こすために。」
同時に、カテキズムはこうも言います。
「今日、私たちに日ごとの糧をお与えください」の「私たち」は、神をすべての人の父として認める「私たち」であり、すべての人の必要と苦しみに連帯して願う「私たち」である。
ここは本当に美しい点です。「私に与えてください」ではなく「私たちに与えてください」と祈る。神が私の神であり、私が神のものであるという親密さは、他者を忘れる所有意識ではありません。だから祈りは常に複数形です。私は自分のために願う時も、兄弟姉妹のために願っています。
しかもそれは、キリストを知り、信仰を受けた人々だけに限定されません。信仰をまだ受けていない人々のためにも願います。
カテキズム1939番(ここで参照されている箇所)は、人間の連帯についてこう述べます。
連帯の原理(友情、社会的愛とも呼ばれる)は、人間的・キリスト教的兄弟愛から直接に要請される。広く見られる誤りは、この人間的連帯と愛の法則を忘れることだ。これは、人類の共通の起源と理性的本性の平等、そしてキリストの贖いのいけにえによって示され、課せられている。
つまり私の連帯は、キリストにおける契約から来るだけでなく、信仰を受けていない人々に対しても、同じ人間としての理性的本性と尊厳を共有しているという事実から生まれます。
だから「私たちに与えてください」と祈るとき、私はキリスト者だけのために祈っているのではありません。キリスト者でない人々のためにも祈っています。ムスリムのためにも、ユダヤ人のためにも、無神論者のためにも。日ごとの糧の願いは、彼らも含みます。
誰一人この祈りから外しません。なぜなら、ここで引用されるピオ十二世の言葉が言うように、私たちは共通の起源と理性的な人間本性の平等を分かち合っているからです。神の似姿としての人間性を分かち合うことは、私たちが思う以上に深い兄弟性を与えます。キリストにおける明示的な契約をまだ受けていない人との間にさえ、その絆は確かにあるのです。
そこまで含めて、人間同士が結ばれているということは、私たちが想像する以上に大きいのです。
さて…
たとえば、こんなイメージが浮かびます。
海外に行って、遠い国、何千キロも離れた場所――たとえばオーストラリアにいたとします。そこで急にスペイン語を話す人に出会って、「あ、この人スペイン人かな」と思う。話してみたら、なんと自分の隣町の人だった。知らない人なのに、ものすごく驚いて、すぐに打ち解けて、一緒に歩いたりお茶したりする。
「隣町出身」というだけで強い結びつきを感じる。遠いオーストラリアにいるからこそ、その偶然に心を打たれる。
でも、よく考えてみると、その結びつきは、人間として同じ条件を分かち合い、同じく神の似姿として生きているという結びつきに比べたら、ほとんど取るに足りないものです。隣町かどうかなんて本質ではない。オーストラリアの人でも、ここにいる人でも、どこにいる人でも、同じ人間性を分かち合っている――そこが本当の土台です。
私たちが築くべき結びつきは、こうした根本に基づくものです。
「同じサッカーチームのファンだからつながる」と言う人もいますが、それはどれほど深い絆でしょうか。チームや色や党派で結ばれること自体を否定するわけではありませんが、時に私たちは、ほとんど空っぽの土台で「絆」を語ってしまうことがある。
本当の絆は、神の似姿としての人間性を共にしていることです。すべての人、すべての人間には尊厳がある。その事実こそ、私たちを真に兄弟姉妹として結びつけるはずです。
こういう例を挙げるのは、考えるきっかけをつくるためです。だからこそ私は主の祈りを唱えるとき、人類全体と結ばれて祈ります。神が私にも共同責任を委ねられたこの人類全体とともに。
有名な言葉があります。
私たちが神に「父よ」と言うたびに、神は「あなたの兄弟はどこにいるのか」と問い返される。
そこには、ただちに共同責任への呼びかけがあります。
もう一度読みます。
「この『私たち』は、神をすべての人の父として認め、私たちはすべての人の必要と苦しみに連帯して願う。」
さて、ここまででこの最初の語の説明ができました。神のみ旨なら、明日から続きを進めます。今日は、イエスが教えてくださったこの祈りにおいて、私たちがどれほどの信頼をもって神に向かうのか、その意味を確認しました。子としての大胆さ、愛されているという確信、内なる安心――そうした信頼をもって「お与えください」と願う。しかも命令形で願う。その重みを見てきました。