十戒

第二戒「神の御名をみだりに唱えてはならない」

2026年3月17日

十戒の第二戒「神の名をみだりに唱えてはならない」

神の律法の第二戒は「神の名をみだりに唱えてはならない」です。この第二戒の本題に入る前に、まず強調したいことがあります。十戒の最初の三つは、私たちと神との関係を指しているということです。十戒の中でも最初の三つは特別です。神の律法の石板を見たことがある方はご存じかもしれませんが、五つと五つで分けるより、第一の板に三つ、第二の板に七つとして示されることがよくあります。何を強調しているかと言えば、神との関係――最初の三戒――に特別な重みがあるということです。まず神が第一、ということです。実際の私たちの生活はしばしばそうなっていませんが、最初の三戒は一つのまとまりです。「神を何よりも愛しなさい」「神の名をみだりに唱えてはならない」「主の日を聖としなさい」。残りの七戒は、他者と自分自身との関係に関わります。「父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「むさぼってはならない」等々です。最初の三戒は神との関係、残りの七戒は他者と自己との関係です。

この十の言葉が神との関係から始まるのは意味深いことです。人生の中心に神を置くなら、他のものは自然に本来の位置に収まります。けれど神が中心にいないと、すべてが乱れてしまいます。これが第一の観点です。

第二の観点として、第一戒と第二戒は一つの現実を守る同じ単位です。第一戒「神を何よりも愛せよ」は肯定形、第二戒「神の名をみだりに唱えるな」は否定形で語られます。第一戒は「なすべきこと」、第二戒は「避けるべきこと」です。現代の感覚では「常にポジティブに語るべきだ、否定形はよくない」と言われがちですが、それだけでは現実的ではありません。第一戒を本当に生きるためには、何を避けるべきかを明確にする必要があります。神を心の中心に置くと言うなら、そのために退けるべきものを具体的にしなければなりません。

これを恐れる必要はありません。たとえば洗礼の約束でも、まず「信じますか、愛しますか」と尋ねられ、その後に「捨てますか」と問われます。何を愛するかを告白し、同時に何を捨てるかを誓うのです。捨てるべきものを捨てなければ、「神を中心に置く」という言葉は本物になりません。

さらに進めると、第二戒は「主の御名を敬うこと」を教えます。ここで問題が一つあります。現代文化では「名」という感覚がとても薄れていることです。名だけでなく「言葉そのもの」も軽く見られています。今は感情や行動ばかりが重視され、言葉の重みは軽視されがちです。私たちは「思い・ことば・行い・怠りによって罪を犯します」と言いますが、この中で最も軽く扱われやすいのが「ことば」です。

しかし言葉には重大な価値があります。たとえばマタイ12章36節には「人が口にするむなしい言葉についても、裁きの日には責任を問われる」とあります。私たちが語る言葉の重みを意識しなければなりません。言葉は人の内面の表れであるべきです。もし口で語ることと心の中が分離しているなら、それは不均衡であり偽善です。

そして現代文化では、人に与える「名前」もまた軽くなっています。だからこそ「神の名をみだりに唱えるな」という第二戒が理解しづらいのです。今は名前の意味を深く考えず、音の響きや好みだけで付けることがよくあります。「この響きがかわいい」「この音が好き」といった基準です。しかし聖書や多くの伝統文化では全く違います。名は単なる慣習ではなく、その人そのものを示し、しばしば神から与えられた使命までも示します。名を尊ぶことは、その人を尊ぶことなのです。

聖書にはその例があります。創世記17章5節で、主はアブラムに「あなたの名はアブラハムとなる」と告げます。契約によってあなたはもはや以前と同じではない、だから名も変わるのです。イエスがシモンに「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる」と言った場面も同じです。名の変更は使命の啓示です。聖書的な名の感覚は、単なる「響きのいい言葉」とはまったく別物です。

ですから、神の名を知るということは神との深い親密さに入ることです。神が御名を明かすというのは、単に「名前は何ですか」と聞くような次元ではありません。御名の啓示は神の内奥の啓示です。人間の力で神の神秘に到達することはできませんが、神は憐れみによってご自身を知らせてくださいました。神が沈黙したまま人間の試行錯誤を放置したのではなく、神の側からご自身を現されたのです。

啓示の頂点はイエス・キリストですが、モーセに御名を明かした出来事もまた高みです。「わたしはある(I AM)」、ヤハウェ――「わたしはあるという者だ」。これは神がご自身の内奥を分かち与えた瞬間です。名が明かされることで、神と人が人格的に語り合える関係へ招かれます。私があなたの名を知り、あなたもわたしの名を知る、だから対話が始まるのです。

「わたしはある」という御名は圧倒的です。私たちは創造された存在として「在る」のであって、自らの根拠で在るのではありません。神だけが永遠に自存する方、他者に存在を与える方です。私たちの存在は受け取ったものですが、神はご自身によって存在しておられます。ヤハウェという御名にはその真理が込められています。

第二戒は、この恵み――神の御名を知らされたという賜物――を守ります。神の名を知ることは信頼を受けたということです。だから私たちは神の名をむなしく唱えることはできません。神について、何でもない話題のように軽く語ってはならないのです。言い換えれば、神の御名は神ご自身に等しい重みを持つのです。申命記12章には「神殿には主の御名が住まう」とあります。「神が住まう」と言ってもよいところを、あえて「御名が住まう」と言う。御名が人格そのものを示すからです。

後代ユダヤ教ではこの畏敬が極度に強まり、ヤハウェの名を発音すること自体を避けるようになりました。代わりにエロヒム、アドナイなど別の呼称を用いたのです。しかしイエスは、御名への敬意を強調しつつも、「発音そのものへの病的恐れ」に偏る宗教性から私たちを解放しました。真の尊敬とは霊と真理による礼拝だと教えられたのです。イエスはヤハウェを「アッバ(お父ちゃん、父よ)」と呼びました。最大の敬意と最大の親密さが同時に成り立つことを示したのです。

ここまでが第二戒を理解する前提です。では「神の名をみだりに唱えるな」の「みだりに」とは何か。これは「空虚に」「真実なく」「軽々しく」という意味です。言葉を中身のない殻として使うことです。これは結局、偽善であり、空疎な形式主義です。イエスがファリサイ派の偽りの宗教性を厳しく批判したのもまさにここです。言葉は使うが、真実がない。神の前に立っている自覚なしに宗教語だけを並べる――それが問題です。

反対に、神の御名に触れることは、人生の変容へと私たちを導くはずです。御名を唱えるとは神の前に立つことだからです。神の前に立つなら、すべてが変わります。「人に良く見られるための言葉」ではなく、真実の中で生きる必要があります。神の名を呼ぶことは、神との真摯で親密な関係を引き受けることです。だから神の名をみだりに唱えるとは、神をもてあそぶことにほかなりません。

(余談ですが)一日の初めや終わり、大切な場面で十字を切ることに深い意味があるのはこのためです。日常の行いが神との実感ある交わりの中にあることを表すしるしだからです。「主よ、この一日を感謝します。あなたの御前で生きます」。十字を切るとはそういうことです。逆に、偽善的・空虚・操作的に御名を使うなら、それは偽りの関係です。第二戒は、私たちと神との関係の真正性を守る戒めなのです。

神に自分をゆだねるとは、人生の全部を差し出すことです。神を呼ぶのに、自分の生き方だけは別、ということはできません。私の先生アントニオ・セス神父(故人)はこう言っていました。「教会と世界の危機がこれほど深い時代、神のために『恥をかく覚悟』のない人は、もう信じられない」。少し強い表現ですが本質を突いています。神を呼ぶなら、必要なら神のために愚かに見られることも受ける――それが「神の名をみだりに唱えない」ということです。

聖人たちは皆そうでした。神の名を呼ぶとき、結果まで引き受けました。「わたしを担え。わたしがあなたを担っているのだから」と神に言われているかのようです。御名は、神の御旨に忠実な愛の表現であるべきです。でなければ神を弄んでいることになります。

さらに進めると、第二戒はトマス・アクィナスの言う「宗教の徳」と深く関わります。被造物が創造主を認め、神に結びつき、へりくだって敬う徳です。ここで伝統が語る「聖なる畏れ(神を畏れること)」が重要になります。これは「神を怖がる」ことではありません。神から離れることを恐れること、神の愛と掟の外で生きることを恐れることです。

つまり第二戒は、宗教の徳の観点から「聖なる畏れ」、聖なるものへの敬意を守る戒めです。現代ではこの感覚は流行りません。率直に言えば、かつてはヤンセニスムのように窒息するほどの恐れへ傾いた時代もありました。しかし今は反対の極にいます。神を父としてでなく、権威を失わせた“都合のいい祖父”のように扱う傾向があります。だからこそ、聖なる畏れを取り戻す必要があります。

先日、亡き母の帰天六年を迎えました。母はカテキスタで、こう言っていました。「神に信頼することと、神に馴れ馴れしくすることは違う」。まさにその通りです。親密さは必要ですが、尊厳と超越への敬意を失ってはなりません。

カトリック教会のカテキズムもこの点を強調します。最近教会博士に宣言された聖ジョン・ヘンリー・ニューマン(英国・元英国国教会)が、カテキズムでこう引用されています。「『聖なる畏れ』という表現はカトリック的であり、私たちのものとすべきだ。畏れと聖なるものへの感覚はキリスト教的感情である。神の現存を信じるほど、その感覚は深まる。もしそれを持たないなら、神が現存しておられると実は信じていないのだ」。

「神を怖がる」のではなく、「神の前に立つにふさわしく生きたい」と願う謙遜、それが聖なる畏れです。ところが世俗化した社会では、聖なるものの感覚喪失のしるしが多く見られます。たとえば典礼の軽さ、礼拝空間での無関心、聖体拝領直後の落ち着きのなさなどです。

聖ヨハネ・デ・アビラの逸話があります。ある司祭がミサをぞんざいに終え、感謝の祈りもせずすぐ向かいの酒場へ行ってしまうと聞いた聖人は、侍者二人にロウソクを持ってその司祭を酒場まで付き添わせました。司祭は恥じ入り、「聖体を受けた直後なのに、自分が誰の現存の中にいるか忘れていた」と気づいたのです。

私自身のズマラガ時代の体験も忘れられません。やんちゃな侍者たちに「聖櫃の前では跪こう。主がおられるから」と繰り返し教えていました。ある日、無人の聖堂で告解室のカーテンが揺れたので開けると、その侍者たちが隠れていたのです。「何してるの?」と聞くと、「神父さまが一人の時にも本当に跪くか見たかった」と。笑い話ですが本質的です。彼らは「これは人前の演技なのか、本当に主がここにおられるからなのか」を確かめたかったのです。聖なるものの感覚があるかどうかは、まさにそこに現れます。

教会の中でも「神は近いから」と言って、沈黙・敬意・跪きなどの聖なるしるしを削ろうとすることがありますが、これは誤りです。神は確かに近い。しかし近いまま全能の主であり続けます。この二つを同時に保たねばなりません。天と地の主が、ここに現存しておられるのです。

この欠如への解毒剤は、神の御前に生きること、聖なる畏れを生きることです。聖なる畏れは人を縛るのでなく、むしろ自由にします。神を畏れない人は、人間的な恐れで満たされます。恥をかく恐れ、拒絶の恐れ、人の目への恐れ、失敗への恐れ。反対に「神がどう見ておられるか」を第一にする人は、人の拍手にも罵声にも支配されません。「私の観客は神だ」――これが聖なる畏れの中身です。

では具体的に、神の名を乱用しないためにどうするか。カテキズム2146はこう言います。「第二戒は神の名の乱用、すなわち神、イエス・キリスト、聖母マリア、諸聖人の名の不適切な使用を禁じる」。ここでまず問題にされるのは冒涜そのものより広い「不適切な使用」です。神の前では常に謙遜が必要です。私が神を所有するのではなく、神に私を所有していただくことを願うべきです。

アブラハム・リンカーンの言葉は的確です。「私の関心は、神が私たちの側にいるかどうかではない。私たちが神の側にいるかどうかだ」。私たちはしばしば「神を自分の側に引き寄せる」危険を犯します。「神がこの計画を祝福してくださいますように」と言う前に、その計画が神の御旨にかなっているかを吟味しなければなりません。

歴史上の十字軍も、出発点には善意があったとしても、道中で多くの混入が起こりました。「神が望まれる(Deus vult)」という標語のもとで始まっても、戦争の現実には無辜の犠牲が生まれます。そこまで含めて本当に「神が望まれた」と言えるのか。神の名を呼ぶときは、常にへりくだって識別しなければなりません。神の御旨が自分の意志と同一だと決めつけてはなりません。

神の名を乱用しないことには、神について語る繊細さも含まれます。例を挙げます。

  • 迷信的に神を呼ぶこと(祈りの連鎖メールや脅し文句のようなもの)。
  • 教育的脅迫として神を持ち出すこと(「神さまに罰せられるぞ」)。
  • 自分の正当化のために神を使うこと(「神があなたを赦してくださるよ」=実は自分の正しさ主張)。
  • 忠告を拒む口実として使うこと(「神は私を分かってくれる」)。
  • 怒りのはけ口として神名を叫ぶこと。
  • 中身のない儀礼的表現として使うこと。

私たちの文化はキリスト教的土壌が深いため、「さようなら(Adiós)」のように無自覚に神の名が唇にのぼる場合もあります。これらには軽重がありますが、もっとも重大な不当使用はやはり冒瀆です。私たちは神に創造され、愛され、永遠に神を賛美するよう召されているのに、その神への侮辱語を口にすることほど宗教的感覚に反することはありません。多くの人は深刻さを自覚せず癖で言ってしまうかもしれませんが、それでも客観的には重大です。

冒瀆の悪習とは本気で闘うべきです。恵みを願い、兄弟的勧告を実践し(公の場で難しければ私的に)、耳にしたときには償いの祈りをささげる――「神の御名はほむべきかな」。さらに、聖なるものへの尊重と信教の自由の保護も社会的に擁護すべきです。宗教感情への侮辱がまったく無害であるかのように扱われるのは健全ではありません。人の親を侮辱してよいはずがないのと同様に、信仰の核心を踏みにじることも人間の尊厳に関わる問題です。

また「冒瀆」は、口で神を罵ることだけではありません。神の名を使って残虐行為を正当化することも冒瀆です。カテキズム2148は、「犯罪行為、民族の隷属化、拷問、殺害を正当化するために神の名を持ち出すことも冒瀆である」と教えます。神名を悪の免罪符にすることは極めて重大です。ガザで起きていることを見ても、双方が神の名を掲げて蛮行を正当化するなら、それはアッラーであれヤハウェであれ同じく冒瀆です。

紛争初期、エルサレムのラテン典礼総大司教(枢機卿ピッツァバッラ)が平和の祈りの日を呼びかけた際、「平和ではなく我々の勝利を祈ってほしい」と返された出来事がありました。しかし神を「戦争に勝つため」に呼び出すこと自体が危険です。そこには冒瀆への転落が潜んでいます。

次に、誓いと約束です。第二戒はこの領域も規律します。カテキズム2147はこう言います。「神の名によって他者に対してなされた約束は、名誉・忠実・真実性・神的権威を担う。正義において守られねばならない。これに不忠実であることは神の名の乱用であり、ある意味で神を偽り者にする」。神の名で約束するなら、本気で守るべきです。

第二戒は偽誓を禁じます。誓うとは、主張の証人として神を呼ぶことです。自分の真実性の保証として神の真実性を呼び出すことです。だから非常に重大です。イエスは誓いの濫用を戒めました(マタイ5章33節以下)。「あなたがたの『然り』は『然り』、『否』は『否』であれ」。何にでも誓いを持ち出す必要がある人は、言葉そのものの信用に問題を抱えていることが多いのです。

教会の伝統では、誓いは裁判や公職宣誓など厳粛な局面に限定されてきました。要点は「軽くしない」ことです。神の名による約束は、名誉・忠実・真実・神の権威を引き受ける行為だからです。

この点で『わが命つきるとも(A Man for All Seasons)』は素晴らしい映画です(1966年、アカデミー賞8部門)。聖トマス・モアの生涯を描きます。ヘンリー8世が教皇と決裂し、自ら英国教会の長となった時、全国民に新体制への忠誠宣誓を求めました。多くの人は命を守るために宣誓しましたが、英国宰相トマス・モアは「良心に反する誓いはできない」と拒み、ロンドン塔に投獄され、処刑されます。

家族が「口で誓って、心では違うことを思えばいい」と説得した時、彼はこう答えます。「人の魂が危機にあるとき、小さなことなど何一つない。誓いとは、言葉によって神の前に魂を差し出すことだ」。さらに「空虚な言葉で誓ってよいなら、誓いは何の意味があるのか。人が空虚な言葉で自分を縛るようになれば、神の言葉も意味を失い、人は権力の前に立てなくなる。私は王のしもべだが、まず神のしもべだ」と。

彼は殉教者となりました。しかしその忠実が、後の英国における信仰の火を守りました。長い禁教と迫害を経て、今では若者層でカトリック信徒が英国国教会信徒を上回るという喜ばしい報告もあります。結局、真理は時を経て実を結びます。

まとめるなら、第二戒はとりわけ「神の御名の神秘」に気づかせる戒めです。御名は神の親密さの啓示です。神は私たちと親しい交わりを持つために御名を明かされました。同時にそれは超越への敬意――聖なる畏れ――を伴います。だから神の名を空虚な言葉として扱ってはなりません。神の名を呼ぶとは、神の眼差しの前で生きることです。

そしてこの戒めは、語り方・ふるまい方のすべてにおける不敬を正し、魂の中心に神を置くことと矛盾するものを退けるよう私たちを導きます。

栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも、世々に。アーメン。