結婚

やさしさが育む、夫婦と家族の聖性(前編)

2026年10月7日

食卓で母親から器を受け取る子どもと、隣に座る父親。壁には小さな十字架がある。

ホセ・イグナシオ・ムニーリャ司教 講話

2019年8月24日、コスタリカのサンホセ大司教区で、家庭司牧に携わる人々の集いにおいて行われた黙想会より。

講話の動画を見る / スペイン語原文

はじめに――やさしさは、聖性への道

玄関で母親が子どもの靴ひもを結ぶ。

今回、私にいただいたテーマは「やさしさ」です。正直なところ、このお話をいただいたときは、ちょっと意外に感じました。日々の暮らし、家庭、そして結婚生活の中で、やさしさが聖性の源になるというのです。

今日は途中に休憩を挟んで、二回に分けてお話しします。まず、家庭がどのように神の特性を映し出しているかを考えたいと思います。そして後半では、教会の中で生き、実践される慈しみのわざについてお話しします。

その前に、なぜこのような流れにしたのか、少し説明させてください。「やさしさ」と聞くと、私たちはすぐに、「どうすればやさしくなれるか」という、行いの問題から考え始めたくなります。たとえば、自分の心のかたくなさに気づくこと。共感する心や、心の自由が足りないと認めること。人からどう見られるかを気にしすぎていないか、やさしさを素直に表すための謙虚さや飾らない心が欠けていないか、と振り返ることです。

行いだけでなく、神との関わりから考える

朝の食卓で、女性がパンと飲み物を前に静かにひと息つく。

やさしさを、主に道徳の問題として捉えることはできますし、確かにそういう面もあります。やさしさをもって人に接するには、ある種の罪や、罪が私たちの中に残した傷跡と向き合わなければならないからです。

たとえば、自分の気分に振り回されないようにすること。これは真剣に取り組む必要があります。私はラジオ・マリアでよく、「神にいちばん喜ばれる節制は、自分の気分を節制することです」とお話ししています。

「節制」や「犠牲」と聞くと、私たちはつい、外側に表れる苦行のようなものを思い浮かべます。でも、そうした行いも、心を変えるための助けにならなければ、あまり意味がありません。そう考えると、自分の気分を整えること以上に、神に喜ばれる節制があるでしょうか。

たとえば、自分は落ち込みやすいと気づいたとします。あるとき、悪魔の誘惑に乗せられて、心が暗くなり、「なんてひどいんだ。自分はなんてかわいそうなんだ」と、あれこれ考え始める。そして、自分を世の中の被害者のように見て、自分を哀れむようになる。これは誘惑なのです。

悲しみは、ただの気分というだけではありません。神が私たちの幸せの源であることを、見失わせる誘惑にもなります。私は神に愛されている。神が私を望んでくださったから、今、この世に生きている。それなら、少し立ち止まって考えてみましょう。「この喜びを奪われるほどの理由が、本当にあるのだろうか。ほんの些細なことで、ずっと苦々しい思いを抱えているのは、どうなのだろう」と。

すると、自分がだまされていたことに気づくのです。そして心の中でこう言えます。「いや、こんなふうにだまされるのはやめよう。乗り越えよう。理由もなく落ち込むこの傾きを、節制しなくては」。

ときには、自分を少し離れたところから眺めて、「おいおい、どこへ行こうとしているんだ」と言ってみるのもいいものです。こうした練習は、とても役に立ちます。自分のことで頭がいっぱいになったら、ちょっと距離を置いて、自分を笑ってみるのです。「ああ、また『しょんぼりマリアさん』が出てきたな」と。そうして笑いながら、「ちょっと待って。今、こんなに落ち込んで、苦い顔をしている意味があるのかな」と考えてみる。自分を笑えるのは、とてもいいことです。

あるいは、何でも悪いほうに考えて、すぐに不平を言いたくなる人もいるでしょう。こういう言い方が、ここコスタリカでも通じるかどうかは分かりません。皆さんとお話ししていると、海を越えて伝わったことわざもたくさんありますが、途中で止まってしまったものもあるようですね。

スペインでは、いつも文句を言っている人を「ぼやき屋」と呼びます。そんなときも、「ちょっと、それはおかしいよ」と、自分を外から見てみることです。「また『私、私』ばかりの自分が出てきた。これにも文句、あれにも文句」と。そうして、神のみ心にいちばん喜ばれる節制は、自分の気分を節制することなのだと、思い出しましょう。

そして、神に喜ばれるもう一つの大切な実践が、感謝です。いただいている恵みに気づく感性を持ち、それを言葉にすること。気づくだけでなく、表すことが大事なのです。

自分が神の恵みに囲まれていると気づいたら、それを口に出して伝えましょう。私たちの心も唇も、いただいた数え切れない恵みを、飽きることなく神に感謝するためにあるのです。

人にとげとげしく接したり、不機嫌になったりする気分を節制すること。そして、恵みに気づき、感謝を表し、言葉にすること。この二つの実践が、私たちの中にやさしさを育てる土台になります。

聖性は、根性で勝ち取るものではなく、神の贈り物

窓辺の鉢植えに女性が水を注ぐ。

ただ、やさしさを、最初から行いの問題だけで考えないことが、とても大切だと思います。神との関わりから考えてみる必要があるのです。神が私たちの喜びの源であり、その神から、私たちはやさしさを学ぶのだということです。

人は、自分の力だけで自分を乗り越えることはできません。神は、ただお手本になってくださるだけではありません。恵みの源でもあるのです。

聖性は、意志の力だけで手に入るものではありません。「よし、歯を食いしばって聖人になるぞ」と思っても、そういうものではないのです。聖性は、神からの贈り物です。

ただし、その贈り物が届くとき、私たちは自分のなすべきことに取り組んでいなければなりません。ある人が、「神が恵みをくださるとき、人は汗をかく」と言いました。本当にそのとおりだと思います。

なぜでしょうか。ときどき、「神が恵みをくださるのだから、私はのんびり寝転がっていればいい。そのうちくださるでしょう」と考える人がいるからです。そうではありません。

神が恵みをくださると、人は汗をかきます。その恵みは、自分の気分を節制し、悲しみや心のかたくなさを乗り越える力を、十分に働かせるために与えられるからです。神は確かに恵みをくださいます。でもそれは、私たちが汗をかくためなのです。

そして、汗をかけること自体が恵みです。いただいたタラントンを土の中に埋めたままにせず、育てていけるのですから。スペインには、「神に祈りながら、槌を振るえ」ということわざがあります。こちらにも伝わっているでしょうか。つまり、祈りながら、自分のなすべきこともする。私たちが立つのは、まさにそこです。

家族の姿を通して、神を知る

礼拝堂の献金箱の前で、母親が子どもに硬貨を渡す。

では、このテーマをどのように考えていけばよいでしょうか。

ラジオ・マリアで神の神秘についてお話しし、カテキズムを説明するとき、私はよく、「どんな例を使えば、もっと分かりやすくなるだろう」と考えます。神の神秘を伝えるために、身近なイメージを探すのです。

すると、どんなものが思い浮かぶでしょう。私の経験では、神について教えようとして例を探すと、そのほとんどが家庭生活から出てきます。家庭生活は、神について語るときに、いちばん身近で、ふさわしい手がかりなのだと思います。たとえと言っても、比喩と言ってもいいでしょう。家庭の中に、神がどのような方なのかを理解するための手がかりがあるのです。

「功徳」を考える――硬貨をくれるのは誰か

以前、『カトリック教会のカテキズム』に出てくる「功徳」とは何かを説明したことがあります。これは、なかなか難しいのです。私たちはつい、「功徳とは、自分が頑張ったことだ」と考えてしまいます。

「神が恵みをくださった。でも、こんなに苦労したのは私なのだから、その分は私の功徳だ」というわけです。でも、正確にはそうではありません。それでは、自分の意志や努力を重視しすぎた理解になってしまいます。

どう説明しようかと考えていたとき、子どものころのことを思い出しました。家族でミサに行き、献金袋が回ってくると、父や母が私たち子どもに硬貨を一枚渡してくれたのです。その硬貨を、自分で献金袋に入れました。

さて、このときの功徳は誰のものでしょう。硬貨を入れたのは、確かに私です。でも、その硬貨は父や母からもらったものです。それでも親は、私自身に献金させてくれました。親だけの行いではなく、私自身の行いにもなるようにしてくれたのです。

これを考えると、功徳も神からの贈り物なのだと分かります。神は、私たちが功徳を積み、ご自分のわざに共に参加できるようにしてくださる。「あなたが功徳を積めるよう、その力を与えよう」と言ってくださるのです。子どものころ、親が私たちに、よい行いをすることを教えてくれたのと似ています。

もちろん、その硬貨をポケットに入れて、献金したふりをすることもできました。そうした子もいたかもしれませんね。分かりませんが。ともかく、神が私たちにしてくださることを理解するには、この例がとても近いように思います。

「良心」を考える――お母さんと目を合わせられないとき

良心についても、家庭の中に分かりやすい例があります。

良心は、私たちが神のみ顔に出会い、自分の生き方が神のみ旨にかなっているかどうかを示される場所です。「良心が痛むだろうか。それとも、痛まないだろうか」。そこで神と出会い、自分の生活を神が喜んでくださっているのか、それとも改める必要があるのかを感じ取るのです。

子どものころの経験で、これにいちばん近いのは、何か小さないたずらをしたときでしょう。「ばれていないはず」と思っている。でも、そのあと母の前に立つと、母は見抜くのです。自分が産んだ子ですから、よく分かっています。「あれ、この子、何かあるな」と。

なぜ分かるかというと、母の目をまっすぐ見られないからです。母は、こちらが何も隠さずに目を合わせられるときと、目をそらしたくなるときの違いを、よく知っていました。これが、良心を説明するのに、私が思いつくいちばん身近な例です。

こうした例はいくらでも挙げられます。神について語るとき、いちばん身近な例は、やはり家庭にあるのです。家庭では、神の愛のあり方にかなったことが起こります。見返りを求めない愛のあり方が、そこにあるからです。

すべての人を愛しながら、一人ひとりを特別に愛する

もう一つ、私たちには理解しにくいことがあります。神はすべての人を愛し、世界を愛し、同時に一人ひとりを愛しておられるということです。

若いころ、私はこう考えたことがあります。「神はすべての人のために命をささげてくださった。でも、私のためにも、私を救うためにも、命をささげてくださった。まるで、私一人のためにそうしてくださったかのように」。

ところが、世界はとても広い。「すべての人のため」と聞くと、「それなら、私個人のためというわけではないのでは」と思ってしまうのです。

ここでも、家庭を思い浮かべてみましょう。親には、ただ「四人の子ども」がいるのではありません。「かけがえのない一人の子」が、四人いるのです。親の愛は、すべての子に向けられながら、同時に、一人ひとりに深く向けられます。子どもたちを、兄弟姉妹として愛し、さらに、それぞれを、その子ならではの存在として愛するのです。

神の愛も、そうです。すべての人に向けられながら、あなたという一人の人に、深く向けられています。神は皆を愛しておられます。でも、あなたを愛するその愛し方は、ほかの誰とも同じではない、かけがえのないものなのです。

小教区の主任司祭だったころのことを思い出します。日曜日のミサでは、複数の意向、たとえば何人かの亡くなった方々のために、ミサをささげていました。

あるとき、とても心のよい女性が香部屋に来て、こう尋ねました。「息子だけのためにミサをささげていただくには、どうすればいいでしょうか」。その方は、息子さんを亡くしていたのです。

私は、その方の心にある思いを受け止めて、こうお答えしました。「私たちには、誰か一人を精いっぱい愛すると、ほかの人がおろそかになってしまう、という経験があります。でも神は、すべての人を完全に愛しながら、一人ひとりに、その人がたった一人であるかのように、ご自分をささげることがおできになるのです」。

例はまだまだあります。でも、確かなのは、家庭が、神を知るためのいちばん身近なたとえであり、手がかりだということです。神の贈り物を生きること、家庭という贈り物を生きることが、神の無償の愛を理解するための心を育ててくれます。

だからこそ、家庭を守ることは、とても大切なのです。家庭を攻撃し、軽く見たり、見下したりすることは、その根底では、神を軽んじることでもあります。神への攻撃なのです。

神を知ることで、家庭の姿も見えてくる

家族三人で食卓の椅子を整える。

一方で、神を通して家庭を知ることも大切です。家庭を通して神を知ることができるなら、その逆もできます。神を知ることで、家庭を知るのです。ここからは、そのことを少しお話ししたいと思います。

家庭で起こることは、神がどのような方なのかを理解する助けになります。そして、神を知ることは、家庭がどうあるべきかを理解する助けにもなります。

神について語るとき、とくに典礼では、私たちはさまざまな「属性」を用います。属性というのは、神がどのような方であるかを表す、完全な特性のことです。

「神は全能である。神は善であり、限りなくやさしく、いつくしみ深い。神は知恵に満ち、真実である」。こうした神の特性を、私たちは典礼でよく呼びかけます。「いつくしみ深い神よ」「全能の神よ」と。いわば、神の姿を描く言葉なのです。

私たちは、神の似姿として造られています。ですから、こうした神の特性から、家庭の心をよりよく理解することができます。そのいくつかを見ていきましょう。

私たちがよく繰り返すのは、「全能の神よ」という言葉です。神は全能であり、限りのない方です。天と地の神、すべてを治める神。その力の及ばないところはありません。

当然、全能の神が二人いることはできません。神が無限であるなら、無限の存在が二つあることはできないからです。全能の方が二人いるということもありません。神は、唯一の、全能の神なのです。

1.全能の神――安心と信頼

踏み台に立つ子どもの手を父親が支える。

ここで、一つ考えてみてください。家庭で育つ子どもは、幼いころ、まるでお父さんとお母さんが何でもできるかのように感じる時期を通ります。

神は、親が子どもにとって、全能の神の姿を映す存在になることを望まれました。人生の最初の時期に、子どもが安心して、「お父さんとお母さんがいるから、世界がひっくり返っても大丈夫」と思えることは、とても大切です。「二人と一緒なら、怖いものなんてない」。そう感じられることです。

この経験は、全能という神の特性にあずかるものです。小さな子はよく、「うちのお父さんはね……」と自慢しますね。「うちのお父さんは、何でもできるんだ」と言わんばかりです。親に憧れ、そのもとで安心しきっている、幼い子ならではの誇らしさです。

一方、私たち大人は、自分の弱さや不安定さをよく知っています。「住宅ローンを払わなければいけないけれど、どうしたらいいのか。こんな問題もあるし、健康の問題もある」。本当に心細く感じることがあります。

それでも神は、私たちが子どもにとって、ご自分の全能を映す存在になることを望まれています。「仕事はどうなるのだろう。来月も住宅ローンを払えるだろうか」と思っていても、子どもにとっては、頼れる存在であってほしいと望まれているのです。

幼い子が、十分に愛され、大切にされ、守られていると実感できること。親が抱えている不安や心配を、そのまま子どもに背負わせず、その子にとって安心できる存在になること。神はそれを望まれています。

私たちはとても弱い。それでも、その子にとっては、すべてを任せられる存在であるように。弱さがありながら、その子のためには強くあれるように。これは美しいことですし、神の贈り物にあずかることでもあります。

飛行機の機長は、僕のお父さん

ここで、一つお話をさせてください。スペインのラジオ・マリアで、ある宣教師が語っていた話です。私には、ずいぶん考えさせられるものでした。

その方は、休暇を過ごすために、飛行機で帰国していました。サハラ砂漠の上空を飛んでいたとき、乱気流がよく起こる区域に入りました。機内食のトレーが配られたあとだったのですが、その日は、いつもより激しく揺れたそうです。

トレーが跳ね上がるほどで、乗務員は「落ちたものは拾わなくて大丈夫です。危険はありません。揺れが収まってから床を片づけます」と案内しました。

その宣教師も、あの揺れには驚いたと言っていました。ところが、前方の座席に、一人で乗っている男の子がいたのです。乗務員たちは、ほかの乗客を落ち着かせるのに忙しく、その子にはとくに声をかけていませんでした。それでも男の子は、誰に何を言われるでもなく、落ち着いて座っていたそうです。

揺れが収まってから、宣教師はその子に近づいて言いました。「君、勇気があるね」。すると、男の子はこう答えたのです。「だって、機長は僕のお父さんだもん」。

飛行機を操縦していたのは、その子のお父さんでした。お父さんが操縦していると知っていたから、安心していたのです。宣教師は、この素直な信頼に、深く考えさせられたと言っていました。「お父さんを、こんなにも信頼しているんだな」と。

お父さんの腕に飛び込む子どもと、神の摂理

もう一つ、スペインで行った夫婦の黙想会でのことを思い出します。

何年か前、深刻な経済危機があり、多くの人が仕事を失いました。そのころ、あるご夫婦が、こんな経験を分かち合ってくれました。

ご主人は、今の会社で働き続けてよいのか、良心の問題で深く悩んでいました。上司が、道徳に反すること、さらには偽造のようなことまで、社員にさせていたからです。自分が、明らかに不正だと分かっていることに関わっている。それが苦しかったのです。

でも同時に、「仕事を辞めたとして、この不景気の真っただ中で、次の仕事が見つかるだろうか」とも考えていました。家族を養わなければならなかったからです。

ある日曜日の午後、その方は、小さな子どもたちと遊んでいました。食堂のじゅうたんに寝転がっていると、何でも試してみたくなる年ごろの子が、テーブルによじ登り、父親に受け止めてもらおうと飛び降りるのです。

「わあ、飛んだ!」と、父親はボールを止めるゴールキーパーのように、腕を伸ばして受け止めます。子どもはまた登り、今度は少し遠くへ飛ぶ。それでも、お父さんなら手を伸ばして、必ず受け止めてくれると信じているのです。

ご主人は、こう話してくれました。「そのとき、ふと思ったんです。こんなに小さくて弱い私を、どうしてこの子は、いつでも受け止められると思うほど信頼しているんだろう。それなのに、私は神を信頼していない。良心に忠実であるために仕事を辞めたとしても、神が摂理のうちに私を支えてくださると、信じ切れていない」。

子どもが、思い切って何度も飛び込み、自分に受け止めてもらおうとする姿を見て、こう考えたのだそうです。「この子が私をこれほど信頼しているのなら、私はどうして、全能の神を信頼しないでいられるだろう」。

おもしろいですね。時がたち、幼い時期を過ぎると、子どもは当然、「お父さんは何でもできる」という素直な思いから卒業していきます。親にも弱さがあると分かってくる。何でもできるわけではなく、ほかの人と同じように弱い。無限でも全能でもなく、困ることもあるし、いつも強いわけでもないと気づくのです。

そのとき、二つの道があります。子どもが不安を覚えるようになるか。それとも――キリスト教の教育は、このように導くものでなければなりませんが――親の中に感じていた強さや安心は、神の強さにあずかったものだったと気づくか、です。

親の腕から、神の腕へ。その子が、親のもとで感じていた安心は、目には見えない神の現存のしるしだったと知るのです。家庭に秘められた神秘を映し出し、神の無限の力を示す、いわば秘跡のようなものだったと。これは、子どもの成長にとって、とても大切な時です。

信頼は、説明を聞くだけで身につくものではありません。人から人へと伝わるものです。親を信頼した経験を通して、人は神を信頼することを学びます。

神を信頼するとき、私たちは神の全能にあずかっています。「神が私を守ってくださる。私は、そのみ手の中にいる」。この信頼が、神の全能にあずからせてくれるのです。

家庭が神の特性をどのように映すかを理解するうえで、これは大切な経験です。そして、このことは、親子の関係だけでなく、夫婦の間でも生きるように招かれています。

結婚生活では、強さも弱さも分かち合います。あるときは、一方がもう一方より元気で、別のときには逆になる。それは自然なことです。神が私たちに強さを与えてくださるのは、自分だけのためではなく、相手のためでもあります。それも、神の摂理の一部なのです。

何年か前、若者たちとサンティアゴ巡礼をしたことがあります。フランスとの国境から760キロ、26の行程を歩きました。

歩き終えて振り返りをしていたとき、一人がこんなことを言いました。「これだけ長い間、たくさん歩くと、つらい日もあった。私たちは14人いたけれど、14人とも、どこかで力尽きそうになった。でも、ありがたいことに、それぞれ別の日だったんですよね」。

摂理は、私たちが順番に弱るようにしてくださったのです。

人生も、そうではないでしょうか。神は、私たちの強さと弱さが、互いに支え合うように取り計らってくださいます。誰かの強さが、誰かの弱さを補う。人生の浮き沈みは、たいてい全員が同時というわけではありません。

神は、その時を整えながら、私たちにこう言っておられるのです。「あなたが強いときには、ほかの人を支えなさい。そして、力が必要なときには、ほかの人の強さを受け取りなさい」。

もう一つ、お伝えしたいことがあります。神が全能であり、無限であるということを、子どもに自分の弱さを隠す口実にしてはいけません。自分の失敗を隠そうとするとき、私たちは神の全能を正しく映しているとは言えないからです。

親も、ときには失敗したことを、謙虚に子どもの前で認め、赦しを求める必要があります。「お父さんとお母さんは間違えたんだ。私が間違えた。神に赦しをお願いして、告解をしてきた。これから、もう一度やり直そうと思う」と言えることです。

父親や母親が、子どもの前で悔い改めを表し、新しく生き直そうと決意する。その姿は、教育の中でも、とりわけ大切な瞬間の一つです。私たち皆が頭を下げ、謙虚になるべき、自分より大きな真理があると示しているからです。

親が子どもの前で謙虚になること。それは、子育ての中でも、もっとも尊い瞬間の一つなのです。

2.いつくしみ深い神――「愛されている。だから、私は存在する」

母親が子どもの膝にばんそうこうを貼る。

ここまでは、神の全能についてお話ししてきました。でも、もう一つ、とても大切な特性があります。それは、神の善と慈しみです。これは、全能と補い合うものです。「全能の神」と呼びかける私たちは、同時に「いつくしみ深い神」「限りなく善である神」とも呼びかけます。

私たちが存在していること自体が、この神の特性の結果なのです。ここは、ぜひ強調しておきたいところです。

私たちは、神の全能だけによって存在するようになったのではありません。神が無から創造されたのは、確かに全能の力によるものです。でも、それだけではありません。神の愛によるものでもあるのです。

私たちが存在するのは、神が私たちを愛してくださったからです。私たちの存在を生み出した愛があるのです。神の善は、ご自分のうちにとどまらず、あふれ出ました。

神には、私たちを造る義務などありませんでした。私たちが存在しなくても、不思議ではなかったのです。それなのに存在しているのは、神のあふれるほどの愛が、創造のうちに惜しみなく注がれたからです。

私はこのことを、よく繰り返しお話ししています。SNSをご覧になっている方なら、お気づきかもしれません。デカルトの言葉を、いわばひっくり返してお話しするのです。

デカルトには、「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉がありますね。でもこれは、私自身を宇宙の中心に置くような考え方です。デカルトには申し訳ありませんが、私には、自分にばかり目が向いた考えのように思えます。

実際には、「私は愛されている。だから、私は存在する」のです。愛されたから、私は存在する。私の人生を支え、その土台となる愛から、私の存在は生まれたのです。

ですから、神をもっともよく表す特性は、慈しみ、すなわち善です。慈しみとは、貧しく、惨めな状態にある人に惜しみなく注がれる愛です。何の権利も功徳もない人へと向かう愛。それが、慈しみの愛なのです。

私たちは、この神の大いなる特性を、家庭の中でも映し出すように招かれています。家庭で受け取る無条件の愛は、神が私たちを造ってくださったときの、無条件の愛を映しているからです。

子どもや若者が、感情の面でも心の面でも安定し、成熟していくためには、その土台に、無条件に愛された経験が必要だということが、今日、ますます理解されるようになっています。その経験が、その子を支える、しっかりした足場になるのです。

ところが、ときどき、こんな言い方をしてしまうことがあります。「いい子にしていたら、お父さんとお母さんは、あなたを大好きになるよ」。これは気をつけなければいけません。そもそも、本当ではありませんから。

お父さんとお母さんは、その子がよいことをする前から、悪いことをする前から、その子を愛しています。愛は、行いよりも先にあるのです。よい行いの代金でも、頑張ったご褒美でもありません。

神があなたを愛してくださるのは、あなたが聖なる人だからではありません。神があなたを愛してくださるから、あなたは聖なる人になれるのです。ここは大きな違いです。

神に愛されているからこそ、聖なる者となるように招かれている。逆ではありません。

そして、神の愛が、もっとも必要としている人に惜しみなく注がれるように、家庭の中でも、愛は、もっともそれを必要としている人に注がれます。もっとも愛される資格のある人に、というのではありません。これが、条件をつけない愛の経験です。家庭では、それを神の特性の反映として生きるのです。

もちろん、家庭の愛が、神の愛の純粋さにまで達することはありません。私たちへの神の愛と、まったく同じになることはないのです。

私たちは、子どもを愛し、その誕生を望むとき、男の子か女の子か、どんな子になるのかを、まだ知りません。でも神は、私たちがどのような人になるかをご存じのうえで、この世に送り出してくださいました。

これは、さらに大きなことです。私の親は、私をこの世に迎えてくれましたが、私がどのような人になるかは知りませんでした。神は違います。永遠の昔から私を知り、ありのままの私を愛してくださったのです。

それなら、神が愛してくださった私を、私自身が愛さないでよい理由があるでしょうか。神が初めから私を知り、愛してくださっているのに、自分を受け入れず、見下し、自分の人生を「かわいそうな私」「不満ばかりの私」という目で見てよい理由があるでしょうか。

親の愛の土台にあるのは、神の愛です。私たちは、神の完全に無条件な愛の、その絶対的な豊かさに届くことはありませんが、そこから愛をいただいているのです。

3.神は単純であり、一つである――一致と交わり、シンプルな心

家族三人で食事の準備をする。

三つ目の特性です。「神は単純であり、一つである」と言われます。これは、神が唯一であるということだけではありません。神の単純性、複雑さのないあり方についても語っています。神は唯一であり、シンプルなのです。

リヨンの聖イレネオの言葉に、私が初めて知ったとき、とても心を動かされたものがあります。

「神がシンプルであるなら、人生もシンプルです。人生を複雑にするのは、罪なのです」。

ここは、はっきり覚えておきたいところです。神はシンプルであり、人生もシンプル。そこへ罪が入り込んで、物事をややこしくしてしまう。これは、大切な経験ではないでしょうか。

ところが、神のこの特性、シンプルであること、単純であることを映し出すのは、私たちにはなかなか難しい。私たちは、一人ひとり、ずいぶん違っているからです。

お母さんたちは、よく「うちの子たちは、本当にそれぞれ違うんです」と言います。「うちの子たちは、本当にそっくりです」とは、あまり言いませんね。それほど、違いがはっきりしているのです。

それぞれが、それぞれのあり方で形づくられているからこそ、違いがあります。そして、私たちの自己中心的な心は、自分の思いどおりにしたいという気持ちを、さらに強く主張しがちです。

でも、イエスは、私たちが皆、一つになるように祈られました。あの言葉を覚えていますか。「父よ、すべての人を一つにしてください」。

イエスは、「父よ、皆を多様で、それぞれ違う者にしてください」とは祈られませんでした。それは、放っておいてもそうなるからです。イエスが祈られたのは、一致でした。

多様さや違いが悪いということではありません。それはよいものです。ただ、違いは自然に生まれてきます。イエスが御父に願われたのは、私たちがシンプルな心で、結ばれて生き、交わりのうちに、一つの心、一つの魂となることでした。

家庭の中でも、一つの心、一つの魂として子どもを育てるとき、そのことが、ひときわはっきり表れます。強い家庭、健やかな家庭、聖なる家庭とは、深い結びつき、一致のある家庭です。「私たちは一つだ。しっかり結ばれている」と言える家庭です。

強い家庭では、「私」よりも「私たち」という言葉が多く使われます。家庭の中が「私が、私が」ばかりになったら、家族としての姿が失われてしまいます。家族は、「私たち」なのです。

私は、バスク地方のサン・セバスティアンの司教です。そこでは、バスク語が話されています。

おもしろいことに、キリスト教に深く根ざしたこの言葉では、子どもが自分の父親について話すとき、「私のお父さん」ではなく、「私たちのお父さん」と言います。イエスが教えてくださった「主の祈り」と同じですね。イエスは「私の父よ」ではなく、「私たちの父よ」と教えてくださいました。

放蕩息子のたとえも、思い出してみてください。父親と兄のやり取りでは、誰のことをどう呼んでいるかが、とても意味深いのです。

兄は、「私の弟が」とは言わず、「あなたのあの息子が、財産を使い果たした」と言います。それに対して父親は、「お前のあの弟が」と答えます。

家庭は、神の特性を映すものとして、一致と交わりを映し出すように招かれているのです。

それに逆らう、とても強い傾きもあります。罪から生まれる傾きです。罪は、人をばらばらにするからです。

「ディアボロス」という言葉の意味をご存じでしょうか。「分ける者」「引き離す者」という意味です。

それに対して家庭は、一致の種をまき、私たちが一つの心、一つの魂だと感じられるようにする、神の贈り物です。私たちを分けるものよりも、結びつけるものを大切にする。受け継いできたものや、共通の価値観がある。自分一人でやっていくことより、交わりの中で生きることを学ぶのです。

今の文化は、自分を基準にする傾向がとても強くなっています。自律、自己決定、何でも「自己」です。でも、私たちは一緒に進むのです。同じ車に乗り、同じ船に乗っているのですから。

神は単純であり、シンプルであり、一つです。私たちも、一致とシンプルさの経験の中で成長するように招かれています。

霊的な生活を深めるほど、物事はシンプルなのだと、いっそう分かってきます。霊的に成長するにつれ、すべてがよりシンプルになるのです。反対に、神から離れると、何もかもがますますややこしくなります。神のそばでは、物事がシンプルになっていきます。

神が回心へと招いてくださると、初めは、何もかもが複雑になったように感じるかもしれません。「なんて大変なんだ。改めなければならないことが、こんなにたくさんある。良心の糾明をして、こんなに多くの罪を認めなければいけない」と。

最初に「これは大仕事だ。難しそうだな」と思うのは自然です。でも、最後までそうなのではありません。

まず、神があなたを呼ばれます。その呼びかけに応えると、あなた自身が関わることになります。関わり始めると、物事が複雑になったように感じます。でも最後には、シンプルになっていくのです。

神がシンプルだからです。結局、すべては愛と信頼へと帰っていきます。「あなたに信頼します。神の愛を信頼します」。最後には、すべてがシンプルになる。でも、神から離れている間は、私たちは何とたくさんのことを、ややこしくしてしまうのでしょう。

ですから、これは家庭の中で意識し、映し出し、大切に守るべき神の特性です。家族の一致は宝です。

悪魔は、家族をばらばらにし、争わせることができると、大喜びします。相続やお金、ねたみ、嫉妬、ときには神のことをめぐってさえ、家族が争ってしまう。何という悲しいこと、何という大惨事でしょう。私たちは、家庭の一致と交わりを、とくに大切に守らなければなりません。

それを守らないことが、家族の交わりに、とてつもなく大きな傷を与えています。新しいテクノロジーの入り込み方は、がんのようです。一緒に暮らしているのに、心は一緒にいない、という状態を生み出しているからです。

新しいテクノロジーは、遠くにいる人を近づけ、すぐ隣にいる人を遠ざけるようになってしまいました。

隣の部屋にいる人が、これから何をするかを、WhatsAppで知らせてくる。「ちょっと待って、隣の部屋にいるんでしょう。何をしているんですか」と言いたくなります。

でも、これが実際に起きていることなのです。今の時点で、これが私たちにどれほどの影響を与えるかを見極めるのは難しいでしょう。それでも、十分に注意していなければなりません。

カリフォルニアのシリコンバレーには、Googleなどの大企業で働く優秀なIT技術者たちがいます。その人たちの子どもが通う学校、多くはその家庭のために設けられた私立学校ですが、そこでは大学に進むまで、学校にテクノロジーを持ち込まないという決まりがあるのをご存じでしょうか。電子黒板も、何もなしです。おもしろい話ですね。

私は、ある報道番組を見たことを覚えています。記者が校長に、「なぜ、こういう教育を選んだのですか」と尋ねると、「保護者の希望です」と答えていました。

その保護者たちは、事情を知らない人たちではありません。背後に何があるのか、これから知るという人たちではないのです。

私は、このようにテクノロジーが入り込む中には、意識されにくい形で人を誘導し、実際に依存を生む仕組みが、かなりあるのではないかと思っています。そして、そう疑う理由はあると考えています。依存を生み、人を引き離し、分断する。人を奴隷にしてしまうのです。

考えてみてください。もっとも徹底した隷属とは、奴隷であることを、その人自身に心地よく感じさせるものです。

ローマ時代に、船の漕ぎ手として働かされる奴隷なら、少なくとも、「誰かが自分を解放してくれたらいい。ここから抜け出したい」と願っていたでしょう。

ところが今は、縛られている本人が、それを心地よく感じるような隷属が生み出されています。人は自分の中に閉じこもり、たとえばポルノへの依存や、あれこれへの依存に縛られてしまう。

自分が縛られていることを、心地よいと感じるように仕向けられる。これが、もっとも徹底した隷属です。そうなると、私たちは本当に、その状態から抜け出せなくなってしまいます。

だからこそ、チェスタトンは、確か、強い家庭は独立国家のようなものだと言っていたのだと思います。

「すみませんが、ここには税関があります。勝手に入ってきて、うちの子たちに、何をしろ、何を考えろと指図することはできませんよ」と言うようなものです。

強い家庭は、一つの独立国家のようなものです。家庭を尊重してもらいましょう。家庭の中で大切にする価値観を伝えるのは、私たちなのです。

でも、何が起きるか分かりますか。その税関を、その家庭の境界を、「トロイの木馬」がすり抜けて入ってくるのです。

その木馬の一つが、テクノロジーです。家庭の境界を自分たちで守っているつもりでも、とんでもない木馬が中に入り込んでしまうのです。

これは、大きな闘いです。家族の交わりと一致を守るための闘いです。繰り返します。交わりを生き、一つになり、価値観を分かち合うための、大きな闘いなのです。

家族の一人ひとりが、勝手気ままに、自分のことだけをして、最後には共通の価値観が何もなくなってしまう。そうならないための闘いです。

4.永遠で、変わることのない神――変わらずに残る価値

祖母と母親、子どもが一緒に家族の写真アルバムを見る。

もう一つの神の特性は、神が永遠であり、変わることがないということです。

ところが、この世で私たちが経験するのは、何もかもが絶えず変わっていくということです。目まぐるしい速さで生きています。昨日はこうだったのに、今日はもう違う。あまりに変化が多くて、永遠に変わらない価値などあるのだろうかと、分からなくなってしまいます。

私は、ありがたいことに、母と一緒に暮らしています。母は90歳です。

母はよく、「私たちの世代ほど、一生の間に、こんなにたくさんの変化を見た世代は、もうないでしょうね」と言います。「これからもいろいろ変わるでしょうけれど、たった一度の人生で、ここまでというのは、なかなかないわ」と。

母には、母が通ってきた人生があります。でも美しいのは、これほどさまざまな出来事を経験しながら、大切な価値観を、そのまま守ってきたことです。いろいろなことがあった。それでも、母にとって、人生の本質的なものは変わらずにあり続けたのです。

ここは、強調しておきたいことです。未熟な人は、何もかもが絶えず変わると考えます。でも、神から、その永遠性から来る成熟を生きる人は、形は変わっても、本質的なもの、決定的に大切なものは、いつまでも残ると知っています。

風向き次第で向きを変える風見鶏のようになり、進歩とは、考え方を絶えず変えることだと取り違える誘惑があります。でも、それは大きな間違いです。

これまでのものはすべて時代遅れで、何もかもを、絶えず一から作り直さなければならない。そうした態度になると、進歩主義は有害なイデオロギーになってしまいます。

その考えは、本当ではありません。永遠の価値、決定的に大切な価値は、永遠だからです。

イエス・キリストは、昨日も今日も、そして永遠に同じ方です。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」。

決定的に大切な価値は、私の母のものだけではなく、曾祖父のものでも、これからの世代のものでも、同じです。100年後も、私たちは同じ福音を受け取ります。決定的なものは、変わることがないからです。

ところが私たちは、少しだまされているのかもしれません。世の中は、頭を失った鶏が走り回るように、とにかく走る、走る。でも、どこにもたどり着かない。そんな世界の影響を受けているのです。

だからこそ、家庭の中で、「変わらない価値がある」と伝えることが、とても大切だと思います。

多くのことは変わるかもしれません。でも、あなたが今経験していることは、お父さんやお母さんが若いころに経験したことや、おじいさん、おばあさんが経験したことと、ずいぶん似ています。伝えられた福音は同じでしたし、悪魔も同じだったのですから。

そして、間違えないようにしましょう。人生では、敵を取り違えないことが、とても大切です。

皆さんの助けになるかもしれないので、私の経験をお話しします。司教として多くの問題に直面するとき、これは私にとって、とても役に立ちます。ときどき、自分にこう言うのです。

「ちょっと待て。敵を取り違えてはいけない。私の敵は、サタンとその天使たちだ。この人でも、あの人でも、政府のトップでもない。私の敵はサタンだ」。

そうすると、心がとても自由になります。人を愛する力が与えられます。そして、人を苦しめている人たちも、実は悪の犠牲者であることが多いのだと分かってきます。加害者として振る舞っていても、その人自身も悪の犠牲者なのです。ここは、大切なところだと思います。

21世紀の悪魔は、1世紀の悪魔と同じです。同じなのです。荒れ野で悪魔がイエスに仕掛けた誘惑も、今の誘惑も、同じです。

ドストエフスキーは、あの三つの誘惑について、「あらゆる時代、あらゆる文化に共通する三つの誘惑だ」と語りました。

権力と名声への誘惑。快楽への誘惑。そして、所有すること、お金への誘惑。この三つは、どの時代にも、人類全体に共通するものです。神は変わることがなく、悪魔も同じだからです。

どれほど外見を変えても、スペインのことわざにあるように、「猿は絹を着ても、やはり猿」です。見かけを変えても、中身は変わらないということですね。このことわざも、大西洋を渡ってきましたか。それはよかった。

神の特性は、まだたくさんあります。もっとお話しすることもできますが、最後に、もう一つだけ考えましょう。

神は、限りなく正しく、限りなく真実であると言われます。神は絶対的な真理であり、相対主義とは反対の方です。

家庭では、取り繕った姿とは違う、本当の姿が見えてきます。もちろん、ありのままの自分でいられる場所が、家庭だけというわけではありません。でも、外では人はずいぶん仮面をかぶります。家では、互いのことをよく知っています。どんなに演じてみても、あまり役に立ちません。よく分かっているからです。

5.真実で、正しい神――愛と真理を切り離さない

母親が子どもとノートを見ながら、穏やかに話をする。

ここで考えていただきたいのは、家庭に与えられた贈り物とは、真理のうちに愛することだということです。

今の時代の異端の一つは、真理と愛を対立させることです。

一方には、慈しみのない、とげとげしい「真理」を語り、真理を口実に人を痛めつける態度があります。もう一方には、「いいね、いいね」「かわいそうに」「みんないい人なんだから」といった「愛」を語りながら、真理を否定してしまう態度があります。

私には、真理と愛、正義と慈しみを対立させることが、この時代の異端のように思えます。でも、この二つを対立させてはいけません。神のうちでは、すべてが一つだからです。真理と愛は、決して離れることのない夫婦のように、結ばれています。

では、率直に考えてみましょう。この離れることのない二つ、真理と愛のうち、今の文化では、どちらが嫌われ役になっているでしょうか。

真理です。真理のほうが、嫌われ役になっています。

皆、「愛はほしい。慈しみもほしい。でも、真理は厳しくて、好きになれない」と言います。今の文化の中で、真理が、好ましくないもののように感じられる状況が生まれているのです。

でも、真理を離れた愛は存在しません。真理を離れた愛はないのです。それは、ごまかしです。だまされてはいけません。

だからこそ、家庭が、真理のある場所になることが大切です。

気をつけたいのは、子育てで、誤った愛、見せかけの愛に陥ってしまうことです。「かわいいから」と、問題に向き合わず、大切なことを話さないままにし、正すべきことを正さず、その状況を放っておく。これは、明らかに、見せかけの愛です。

スペインでも、ときどき話題になることがあります。学校で子どもが注意されると、親が、その子を注意した先生に食ってかかるのです。

でも、それはどういうことでしょう。その子を正そうとした先生の権威を、親が取り上げてしまっています。

愛情や愛の名のもとに、誰かが自分の子に本当のことを伝えたからといって、反発する。これは、あってはならないことです。注意されたのには、理由があるのです。宿題をしていなかったのか、遅刻したのか、何かあるでしょう。それなのに、真理と愛を結びつける代わりに、どうして、ただ子どもをかばってしまうのでしょうか。

私は、子どものころ、新学年の初めに、母が学校まで付き添ってくれたことを覚えています。母は仕事をしていて、そう頻繁に学校へは行けませんでした。

今では同じく司祭になった兄弟と私の手を引いて、修道士たちが運営する学校へ行ったときのことを、よく覚えています。母は先生にこう言いました。

「私は、あまり来られません。でも、この子たちを叱る必要があれば、どうぞ叱ってください。先生を信頼してお預けします。私にいちいち説明していただかなくて結構です」。

しかも、私たちの目の前で、あとから言い逃れができないように、はっきり言うのです。「お尻をたたく必要があれば、たたいてください」とまで。

母が修道士の先生にそう言えば、私たちにも、話ははっきり分かりました。真理や権威を、自分の都合でねじ曲げることはできなかったのです。お分かりいただけるでしょうか。

ところが今は、私たちはそれを、すっかり都合よく扱ってしまっています。愛情を、真理と対立させてしまう。でも、両者を対立させるのは間違いです。

神は真実であり、正しい方です。ですから家庭も、本当の愛情を口実に、真理と正義が私たちの生き方を形づくることを避ける場所であってはいけません。

真理のうちにある愛。そして、愛に満ちた真理。その二つが、共にあることが大切なのです。