聖体におけるキリストのまことの臨在
聖体におけるキリストのまことの臨在:その教え、歴史、そして私たちの信仰
聖体におけるキリストの「まことの臨在(実在)」は、キリスト者にとって常に、そしていつの時代も極めて大切なテーマです。
イエス・キリストが天に昇られる前、私たちに「あなたがたを孤児にはしておかない」と約束されました。これは第一に聖霊の降臨を指していますが、同時に、聖霊の働きによってイエスご自身が様々なかたちで私たちのうちにとどまり続けてくださる、その多様な臨在の方法をも意味しています。
『カトリック教会のカテキズム』(1373項)には、イエスが私たちのうちに臨在される様々な方法が挙げられています。
- 神のみ言葉(聖書・福音)のうちに:私たちが福音を朗読するとき、今、ここで、私に語りかけておられる生きたキリストに出会います。
- 祈りのうちに:「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」と主が言われた通りです。
- 貧しい人々、病者、苦しむ人々のうちに:「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25章)とあるように、苦難の中にある人々のうちにキリストはおられます。
- 秘跡のうちに:キリストご自身が秘跡を通じて働きかけ、私たちを聖化し、罪を赦してくださいます。
- 奉仕者(司祭)のペルソナのうちに:キリストに特別な方法で型どられた司祭の姿のうちに、私たちはキリストの姿を見出します。
しかし、同カテキズムはこう強調します。臨在の形態は多様ですが、「とりわけ、聖体の形態のもとに」キリストは現存されます。聖体における臨在は、他のどのような臨在よりも特別で、超越したものです。
1. 他の秘跡とは異なる「卓越した臨在」
カテキズム1374項には次のように記されています。
「聖体の形態のもとにおけるキリストの臨在の方法は独特です。この現存は、聖体をすべての秘跡の上に高め、聖体を『霊的生活の完成であり、すべての秘跡が目指す終局』とします。最聖の聖体の秘跡においては、私たちの主イエス・キリストの体と血、ならびにその魂と神性が、したがって完全なキリストが、真実に、本当に、かつ実体的に含まれています。」
ここで言われる「まことの臨在(実在)」とは、他の臨在が本物ではないという意味ではなく、それが「実体的(実体としての臨在)」であり、神であり人であるキリストが「最も優れた意味で(par excellence)」全体として現存されていることを意味します。
ここに、他の秘跡と聖体との興味深い違いがあります。
他の秘跡において、キリストは「働いて」おられます。ゆるしの秘跡や婚姻の秘跡において、主は力強く働かれます。しかし、聖体の秘跡においては、主は働かれるだけでなく、そこに「おられる(現存される)」のです。
言わば、他の秘跡は聖体という体から伸びる手足のようなものです。だからこそ、司祭叙階式、結婚式、洗礼式、そして可能であれば病者の塗油なども、通常はミサ(聖体祭儀)の中で執り行われるのです。
2. 「物理的」ではなく「形而上学的(実体的)」な現存
キリストが実体的に現存されているということは、「物理的に」存在しているという意味ではありません。
例えば、科学者がご聖体を研究室に持ち込んで物理的・化学的な分析を行ったとしても、物理的な方法でイエス・キリストを検出することはできません。かつて、ある熱心な信者が「聖なるパンと普通のパンの違いを科学的に証明したい」と望んだとき、私はこう伝えました。
「その熱意は素晴らしいですが、そのアプローチは適していません。なぜなら、聖体の臨在は物理的なものではなく、形而上学的(メタフィジカル)なものだからです。」
人間の魂が目に見えない実体であるように、聖体もまた、目に見える実験や科学的検証を超えた次元でキリストの体と血に変化しています。歴史上で起こったいくつかの「聖体の奇跡」(ご聖体から血が流れるなど)は、私たちがその現存に気づくために天が例外的に与えてくださる「目覚ましのベル」のようなものです。通常の聖体における現存は、あくまでも信仰によって受け入れる形而上学的な現実なのです。
3. 聖霊の働きと司祭の役割
この偉大な奇跡は、ミサの中の「エピクレーシス(聖霊降臨の祈り)」と「奉献の言葉(制定の言葉)」の瞬間に、キリストご自身によって実現します。
司祭は聖霊の降臨を願い、パンとぶどう酒がキリストの体と血に変じるよう祈ります。この聖霊の働きは、聖霊が処女マリアにお臨みになり、その胎内にキリストの体を形作られた出来事を思い起こさせます。同じ聖霊がパンとぶどう酒の上に降り、その「実体」を変化させるのです。
また、司祭は「これは私の体、これは私の血」と一人称で唱えます。もちろん、これは司祭個人の体や血ではなく、司祭が「キリストのペルソナにおいて(in persona Christi)」、すなわちキリストご自身に代わって語っているからこそ、主の言葉として実現するのです。
神がこれほど謙遜になり、教会が執り行う典礼の行動に従って、ご自身を私たちの手に委ねてくださる。これは驚くべき神秘であり、だからこそ私たちは、ミサの聖変化の瞬間にひざまずき、最大の敬意を払うのです。
膝つき(ひざまずくこと)の意味
健康上の理由で物理的にひざまずくことが難しい場合を除き、私たちはこの神聖な瞬間にひざまずく姿勢を大切にすべきです。現代の典礼において、時にこうした伝統的な姿勢が軽視されがちですが、外的な態度は内的な信仰の告白でもあります。
ここで、私が若かりし司祭の頃、バスク地方のズムラガという町での小さなエピソードを紹介させてください。
いたずら好きの元気な侍者(ミニストランテ)たちがいました。私は彼らに「聖堂では敬意を払いなさい。聖櫃の前を通るときは、必ず膝つき(ジェヌフレクシオン)をするんだよ」と、何度も何度も言い聞かせていました。
ある日、私が誰もいない聖堂に入ると、告解室のカーテンが少し動くのが見えました。不審に思って近づき、カーテンを開けると、なんとその子供たちが隠れていました。「ここで何をしているんだ?」と尋ねると、彼らはこう言ったのです。
「神父様が、一人のときでも本当にイエス様の前でひざまずいているかどうか、確かめたかったんです。」
子供たちのその答えに驚かされましたが、同時に、私たちの信仰がいかに外的な態度や行動によって示され、それが他者に伝わるかを深く実感させられた出来事でした。
4. 実体変化(トランサブスタンシエーション)の教え
カテキズム1376項は、トリエント公会議の定義を引用して、この変化を「実体変化(実体変化=Transustanciación)」と呼んでいます。
教会は、聖書の言葉を正しく理解し、異端から信仰を守るために、哲学的な概念を用いることがありました(例:「三位一体」を説明するための「本質」や「ペルソナ」など)。聖体の教えにおいては、アリストテレス哲学の「実体(Substancia=ものの本質、内実)」と「偶性(Accidente=外観、性質)」という概念が用いられました。
- 偶性(外観):見た目、味、形などは、変化の後も「パンとぶどう酒」のままです。
- 実体(本質):その本質的な実在は、完全に「キリストの体と血」に変わっています。
歴史上、プロテスタントの改革者たちとの間で様々な議論がありました。マルティン・ルターはキリストの現存を信じていましたが、パンとキリストの体が共存する「共存説(Consustanciación)」を唱えました。一方でツヴィングリなどは、聖体を単なる「象徴(シンボル)」とみなし、「これは私の体である」を「これは私の体を意味する」と解釈しました。
現代においても、1960年代後半(オランダ・カテキズムを巡る危機の時代)に、「実体変化」の代わりに「意味変化(Transignificación:パンの意味が主観的に変わること)」や「目的変化(Transfinalización)」といった言葉を使って、まことの臨在を単なる主観的な解釈に置き換えようとする動きがありました。
これに対し、教皇聖パウロ6世は1968年に『神の民のクレド(信仰告白)』を発表し、強く反論しました。
キリストの現存は、私たちの主観的な信仰や解釈にかかわらず、客観的な事実としてそこにあります。例えば、信仰を持たない泥棒が教会に押し入り、聖櫃を荒らすご聖体の冒涜を行ったとします。彼らに信仰がなくても、そこには真にキリストがおられるため、客観的な冒涜(プロファネーション)が成立するのです。私たちの信仰がイエスをそこに存在させるのではなく、イエスがまず現存されており、私たちの信仰がそれを「見出す」のです。
5. ご聖体に対する具体的な敬意と現存の持続
カテキズム1377項にはこうあります。
「聖体の形態のもとにおけるキリストの臨在は、聖変化の瞬間から始まり、聖体の形態が存続する限り続きます。」
私たちがご聖体を拝領したとき、イエスはいつまで私たちの内にとどまられるでしょうか。パンの形態が体内で分解され、消滅するまでの間です。だからこそ、聖体領領の後の沈黙の感謝のうちに、主との一致を味わう時間は極めて貴重です。
聖フアン・デ・アビラの逸話
スペインの聖職者の保護聖人である聖フアン・デ・アビラにまつわる、少しユーモラスで深い話があります。
ある司祭が、ミサを非常に慌ただしく、信心を欠いた様子で捧げていました。その司祭は、ご聖体を拝領するとすぐにミサを終え、感謝の祈りもそこそこに、教会の向かいにある居酒屋へ行ってしまいました。
それを見たフアン・デ・アビラ神父は、二人の侍者に祭服を着せ、それぞれに火の灯ったろうそく(燭台)を持たせて、居酒屋にいるその司祭の左右に立たせました。
司祭が驚いて「これはどういうことだ?」と尋ねると、侍者たちは答えました。
「アビラ先生から、神父様はご聖体を拝領したばかりで、まだイエス様が神父様の内におられるから、ろうそくを持ってお供しなさいと言われたのです。」
これは、私たちの外的な態度がいかにキリストの臨在を表すものであるべきかを教える、愛のある戒めのエピソードです。
また、ミサ後に司祭がカリス(杯)やパテナ(皿)の小さな粒子に至るまで丁寧に拭き清める(浄化する)のも、その小さな一粒一粒にキリストが完全にとどまっておられると信じているからです。
6. 歴史における信仰の深まり
教会は2000年の歩みの中で、聖体に対する理解と信心を少しずつ深めてきました。
- 初期教会:迫害下の初期教会には、現在のような常設の聖櫃はありませんでした。しかし、病者や捕らえられた人々に聖体を届けるために、ご聖体を保管(留置)する必要が生じ、やがて鳩の形をした容器(コロンバリウム)などが作られ、これが現在の聖櫃(サグラリオ)へと発展しました。
- 11〜13世紀の聖体信心の開花:ベルギーのリエージュ地方を中心にご聖体を顕示して拝礼する信心が広まりました。
- ボルセーナ・オルヴィエートの聖体の奇跡(1263/1264年):疑いを抱いていた司祭がミサ中にパンを割ると血が流れ出し、聖体布(コルポラル)を赤く染めました。当時オルヴィエートにいた教皇ウルバヌス4世はこの奇跡を認め、1264年に教書『トランジトゥルス』を発布し、「キリストの聖体」の祝日(Corpus Christi)を全世界で祝うよう定めました。
- 現代の信心:1日15分をご聖体の前で過ごす勧め、徹夜の聖体礼拝、24時間絶え間なく祈り続ける「終日聖体礼拝」、そして世界聖体大会など、信心は多様に広がっています。
特に近年、青少年司牧(ユース・パストラル)において、聖体礼拝が素晴らしい実りを結んでいます。2005年にドイツのケルンで開催されたワールドユースデー(WYD)において、教皇ベネディクト16世は、マリーエンフェルトの広大な平原に集まった何十万、何百万もの若者たちの前で、聖体を顕示しました。それまで「大人数の前では私語や混乱が生じるのでは」と懸念されていましたが、その瞬間に訪れた深い静寂と祈りのインテンシティは、世界中の青少年司牧に聖体礼拝を導入する決定的な契機となりました。
結び:私たちの頭をどこに寄りかからせるか
最後に、私が神学生だった頃に恩師から投げかけられた、大切な問いかけを皆さんに分かち合いたいと思います。
「君が疲れたとき、あるいは自由な時間があるとき、君はどこに頭を乗せて休ませるだろうか。テレビの前だろうか、スマートフォンの画面だろうか、それとも聖体の前だろうか。
言い換えれば、もし人々が君を見失ったとき、彼らはまずどこを捜すだろうか。あの人はきっと居酒屋にいる、あるいはサッカーを見ている、と思うだろうか。もし私たちが真に『聖体の魂』であるならば、人々は『きっと聖櫃の前にいるはずだ。いつもあそこにいるから』と言うはずではないだろうか。」
聖堂の聖櫃は、私たちの最もお気に入りの場所であるべきです。
最後の晩餐の席で、イエスの胸に頭を寄りかからせた愛弟子ヨハネのように、私たちもまた、聖体礼拝の中で主の傍らに身を寄せ、真の安らぎを見出すことができますように。ご聖体に対する愛が、私たちのうちにますます深まりますように。