「悪からお救いください」, 主の祈りの最後の願いと悪霊との霊的戦い
「悪からお救いください」。これはイエスが私たちに教えてくださった祈りの結びです。主の祈りの最後の願いです。
「悪からお救いください」。実はこの願いは、あるニュアンスを伴って、イエスの司祭的祈り, すなわち最後の晩餐の後に語られた別れの祈り(ヨハネ福音書)にも含まれています。イエスは父にこう願われます。
「彼らを世から取り去ってくださるようにではなく, 悪い者から守ってくださるようにお願いします」
(ヨハネ17:15)。
つまり結局, 「悪から救ってください」と言うべきか, それとも「悪い者から救ってください」と言うべきか。どちらがよいのでしょうか。カトリック教会のカテキズムはこの祈りにおける「悪」は「悪い者」と同義, すなわち悪魔を指すと明確に教えています。第2851項にはこうあります。
「この願いにおける悪は抽象概念ではなく, 一人の存在, すなわちサタン, 神に敵対する悪しき天使を指す。」
ですから, 私たちが主の祈りを唱えて「悪からお救いください」と結ぶたびに, 実際には「悪魔からお救いください」と神に願っているのです。この点をはっきり心に留めたいと思います。
そこで今日は, ふだんあまり語られない「悪魔」について率直にお話ししたいと思います。「悪魔について語ろう」と題してもよいでしょう。まず, 私の見るところ広く行き渡っている四つの誤りを確認します。
第一の誤りは, 悪魔の存在そのものを否定することです。悪魔は人類を圧迫する悪や罪の神話的擬人化にすぎず, 実在する存在ではない, という考えです。
しかしカトリック信仰は, 天使の存在を明確に告白します。私たちは信条で「見えるもの, 見えないもの, すべての造り主」を信じると唱えます。「見えないもの」とは何か。天使です。神は可視の被造物だけでなく, 不可視の被造物, すなわち天使を創造されました。悪魔はその天使が堕落した存在です。神が与えた自由を誤用したのです。
だから, 悪魔を人格的存在として否定するこの第一の誤りに対して, 私はよくフランスの詩人ボードレールに帰される有名な言葉を思い出します。
「悪魔の最大の策略は, 自分が存在しないと信じ込ませることだ。」
まさにその通りです。そうなれば彼は自由に働けるからです。敵が見えなくなれば, 私たちは防御態勢を取りにくくなります。
第二の誤りはその反対側にあります。悪魔に神性の地位を与え, まるで「悪い神」がいるかのように考えることです。しかしそれは違います。この発想はマニ教的です。マニ教は善と悪という二つの永遠原理を主張しましたが, 教会はこれを退けました。私たちは「善の神」と「悪の神」という二神論を信じません。神は唯一であり, 万物の創造主です。そして神が創造したものは本来善い。悪魔もほかの悪霊も, 本性としては善く創造されたのに, 自ら自由を誤って悪になったのです。人間にも, 別のかたちで同じことが起こりました。
興味深いのは, 現代ではこの正反対の二つの誤りが同時に共存していることです。悪魔を過大評価し, ほとんど神のような存在にしてしまう人がいる一方で, その存在を矮小化または否定する人も多い。しかも信仰拒否は単なる唯物論的無神論にとどまらず, 呪術, 迷信, サタニズムへと流れることが少なくありません。現代世界は神を捨ててオカルトや偶像礼拝へ向かうことがあるのです。
第三の誤りは, イエスの悪魔理解は当時の時代条件に縛られていた, と考えることです。しかしそれは受け入れられません。イエスは父を啓示する方であり, 当時の制約から自由に語り, 行動されました。
たとえばサドカイ派は天使の存在を認めず, ファリサイ派は認めていました。イエスはファリサイ派と対立していたのですから, もし天使を否定したいならサドカイ派に与するのは容易だったはずです。しかし実際には, 天使と悪霊の存在についてイエスはファリサイ派と一致していました。
また, イエスが「悪霊の力で悪霊を追い出している」と非難された場面でも, もし悪霊が存在しないなら「そもそも悪霊などいない」で終わったはずです。けれどイエスは悪しき者の存在を明確に語られます。神の国の到来は, イエスが病者を癒やしサタンを追い出すことによって示されるのです。
第四の誤りは, 「教会の信仰として天使や悪霊がいるのは認めるが, 現代ではこの話題は語るべきでない。恥をかくだけだ」とする考えです。確かに悪魔についての説教は慎重で節度あるものでなければならず, 扇情的であってはなりません。しかし聖書と伝承において, サタンとその使いたちは付け足しではありません。啓示理解の核心に関わる要素です。キリストに従うとはサタンを退けることです。洗礼でも「サタンを退けますか」と問われます。だからこの時代にも語る必要があります。もし霊性の教えからサタンとの戦いを取り除くなら, 敵航空戦力を説明しない軍事教本のようなものになってしまいます。
ただし文脈化は必要です。誘惑と悪の働きは悪魔だけで説明されるわけではありません。前回見たとおり, 魂の敵は三つ, 「世, 肉, 悪魔」です。世とは罪に染まった世俗性の影響, 肉とは私たちの弱さと欲情です。そして悪魔。教会の伝統では, 聖性を真剣に求める人に直接的に襲いかかるのはとくに悪魔だと語られてきました。世や肉にすでに奴隷化されている人には, 悪魔がわざわざ強い攻撃を加える必要がないからです。したがって三つの敵の中で最も危険なのは悪魔だとされます。
聖ヨハネ・デ・ラ・クルスは『霊の賛歌』39章で, 悪魔の誘惑と策略は世や肉のものより強く, 打ち勝つのが困難で, 見抜くのも難しい, しかも世と肉と結びついて魂に激しい戦いを仕掛けると述べています。
では, 悪魔の働きをどう見分けるのか。多くの人は憑依のような特別な現象を思い浮かべますが, そこに執着するのは誤りです。私たちを惑わすのは通常的な働きのほうです。聖ヨハネ・パウロ2世(1986年)はこう述べました。こうした事例において超自然的要素を見分けるのは常に容易ではなく, 教会も多くの出来事を軽々しく悪魔の直接介入に帰すことはしない。しかし原理的には, サタンが害を与え悪へ導こうとして極端な現れに至る可能性を否定できない。
教会の経験では, 「自分は憑依されている」と助けを求める人の多くは実際には精神的病理の影響下にあります。それでも本物の事例がある可能性を軽視してはなりません。教会はそれを見分け, 対応します。
福音書にはなぜ憑依記事が多いのに, 現代西欧ではあまり見ないのか。私の見方では, 悪魔は魂に最も損害を与える戦略をその都度選びます。世俗化した社会では, 露骨な悪魔的現象はむしろ信仰への回帰を促す恐れがある。悪魔は愚かではありません。私自身, 司教の責務に関連していくつか悪魔祓いの場に立ち会った経験がありますが, 「これを大勢が見たら信仰に戻ってしまう」と感じました。だから悪魔は自分に不利な仕方では動きません。地域によっては事情が異なり, 迷信や呪術への依存を強めるケースもあるでしょう。
では改めて問います。日常的な悪魔のしるしは何か。パウロ6世は1972年にこう答えました。神の否定が過激・狡猾・不合理になるところ, 嘘が真理に対して偽善的かつ強力に主張されるところ, 愛が冷酷な利己心によって排除されるところ, キリストの名が意識的かつ反抗的な憎しみで拒まれるところ, 福音の精神がねじ曲げられ否定されるところ, 絶望が最後の言葉として語られるところ, そこに悪魔的働きのしるしを見うる。
同年, パウロ6世は有名な言葉も語りました。「どこかの裂け目からサタンの煙が神殿, すなわち教会の中に入り込んだかのようだ。」実際, 教会内部にも恐るべき出来事が起こりうることを私たちは見てきました。
しかし私たちはキリストの約束, 教会の不敗性を疑いません。
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力はこれに打ち勝つことがない。」(マタイ16:18)
主は「攻撃されない」とは言われません。「打ち勝たれない」と言われるのです。
私は悪魔の働きがとくに三つのしるしで知覚されると思います。
第一は異常な強度。人間の悪が常軌を逸した残虐さに達するとき, たとえばアウシュヴィッツのような出来事に触れるとき, 罪の力だけでなく悪しき者の集中攻撃を直感せざるをえません。
第二は戦略的目標性。非常に「賢く」狙いを定めた悪です。たとえば神への信仰を奪って希望を失わせること。現代の自殺増加はその一端です。あるいは教会の超自然的召命を崩し, 教会を単なるNGOへ還元すること。永遠の救い, 終末, 回心を語らせないようにすること。さらに宗教性を曖昧なスピリチュアリティに置き換え, 啓示への従順ではなく自己慰撫へ向かわせること。これらは戦略的攻撃です。
第三は意図と結果の不釣り合いです。噂話, 批判, 陰口のように, 表面的には「そこまで悪意がない」ように見える行為が, 家族の破壊, 教区の分裂, 共同体の崩壊, 友情の断絶, 職場の荒廃という壊滅的結果を生むことがあります。この不均衡は背後に悪しき者の策略があることを示唆します。教皇フランシスコがゴシップを繰り返し警告されるのもここに理由があります。悪魔は聖書で「告発者」と呼ばれます。ヨブ記にも, 他者を悪く言い立てるその姿がはっきり現れます。
では悪魔の働きは具体的にどう起こるのか。砂漠の教父たちは「ロギスモイ(logismoi)」を語りました。これは悪魔が誘惑を進める具体的形態で, 心を裂くような執拗な思考です。
「自分には価値がない」
「この人生に意味はない」
「努力しても無駄だ」
「もう考えるのをやめて流されてしまえ」
そうした思いが平和を奪い, 心をかき乱します。現代語なら「頭をやられる」という感じでしょう。聖テレジアは16世紀の言葉で「不安, 落ち着きのなさ, 内的騒擾, 乾き, 暗さ, 偽り, 欺き」を撒くものだと語ります。
教父エヴァグリオ・ポンティコスは, ロギスモイへの対処として三つを示します。
1) 観察して, 攻撃されていることを自覚する。
2) 霊的同伴者に打ち明ける(共有された誘惑は半分克服される)。
3) 神の言葉で対抗する。
イエスご自身が荒れ野でそうされました。
「人はパンだけで生きるのではない」
「あなたの神である主を試してはならない」
つまり悪しき者は絶望を撒き, すべてを黒く見せ, 現実を歪めます。聖イグナチオ・デ・ロヨラも, 魂に暗闇と絶望が入り込むときにその気配を察知すると言います。
ではどう戦うか。鍵となる聖句はエフェソ6章10-18節です。
「主にあって, その偉大な力によって強められなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるよう, 神のすべての武具を身につけなさい。」
この武具とは何か。
第一に, 神の言葉という剣と, 祈りに忍耐強くとどまること。キリストが荒れ野で悪しき者に勝利した武器です。
第二に, 正義の胸当て, すなわち恩寵の状態に生きること。罪に勝つとき悪魔にも勝ちます。
「罪を犯してはならない。悪魔に機会を与えてはならない」(エフェソ4:26の趣旨)。
第三に, 信仰の盾。幻視や私的啓示への依存を脇に置き, 「裸の信仰」で歩むことです。聖ヨハネ・デ・ラ・クルスは, そうした領域では悪しき者の欺きが起こりうるから, 教会の信仰にしっかり立つよう勧めます。
第四に, 教会の教えと規律への忠実。教会には「悪しき者に打ち勝たれない」という約束があります。聖テレジアも「自分を頼まず教会の信仰に堅く立つ魂を, 神は悪魔の欺きに渡されない」と語ります。
第五に, 秘跡に加えて準秘跡, とくに十字架と聖水の価値。聖テレジアは「聖水ほど悪霊が逃げ去るものはない」と証言しています。
第六に, 悪魔への恐れを乗り越えること。
「心を騒がせるな, 恐れるな」(ヨハネ14:27)。
キリストは悪魔に勝利されました。悪魔は鎖につながれた獣にすぎず, 私たちが罪によって自ら身を委ねない限り, キリスト者を決定的に害することはできません。誘惑の力も神の摂理のもとにあります。
聖テレジアの言葉は本当に力強い。彼女は, 悪霊たちは自分を恐れているように見えた, 自分は落ち着き恐れが消えた, 彼らは蝿のようなものに思えた, 軽んじられると力を失う, と述べます。神への信頼に油注がれている心には悪魔は手出しできません。
最後に, 悪しき者への勝利は, そこから生じるあらゆる悪への勝利でもあります。ミサで主の祈りの後に唱える続唱(エンボリスム)を思い出しましょう。
「悪からお救いください」に続いて, 教会はこう祈ります。
「主よ, すべての悪からわたしたちを救い, わたしたちの時代に平和をお与えください。あなたのあわれみに支えられ, 罪からいつも解放され, すべての困難から守られますように。」
カテキズムは, 悪しき者からの解放を願うとき, 私たちは彼が引き起こしあるいは扇動する過去・現在・未来のすべての悪からの解放をも祈っている, と教えます。これは世界全体の不幸を神の前に差し出し, 平和という尊い賜物を願う祈りです。
ですから「悪からお救いください」と祈るとき, 私たちは自分個人だけでなく, 全被造界の解放をも願っています。被造物全体は産みの苦しみの中にあります。キリストの勝利が現れるように祈るのです。
多くの人は「悪が勝っている」と感じます。確かにそう見える時があります。しかし主は, 派遣から帰った72人にこう言われました。
「わたしはサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」
福音宣教の働きの中で, サタンは落ちるのです。見かけ上悪が勝っているようでも, 神の国は私たちの可視的把握を超えて前進しています。
神に背を向ける傲慢な文化も, 実は「粘土の足」を持っています。いつ崩れるかは私たちには分かりませんが, 神の時が来れば倒れます。聖フランシスコ・サレジオは「聖人たちの解き放ち(decatenatio sanctorum)」という表現を用いました。今は聖なるものが目立たず悪ばかりが目立つように見えても, 神の計画の中で聖性が解き放たれる時が来る。ベルリンの壁が崩れたように, いま高く見える壁も崩れます。そのとき神の国が静かに, しかし確かに道を開いていたことが明らかになるでしょう。
そして無原罪の聖母マリアの汚れなき御心の勝利が, よりはっきり現れます。蛇の頭を踏む無原罪の御母の姿は, 悪が最終的に屈服するという神の約束のしるしです。
だからこそ主の祈りを「悪からお救いください」で結ぶことは, 私たちの母マリアへの信頼の告白でもあります。神が完全に勝利された方, 悪しき者が何の力も持てない方へ身を寄せるのです。
それではこの黙想を締めくくり, 立ち上がって皆で主の祈りを唱えましょう。
天におられるわたしたちの父よ,
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず,
悪からお救いください。
主が皆さんとともに。
全能の神, 父と子と聖霊の祝福が, あなたがたの上にくだりますように。