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ムニージャ司教に学ぶ、仕事と聖化

2026年5月14日

仕事、召命、そして仕事を通した聖化についての講話を書き起こしからまとめました。

第513番 人間にとって仕事はどんな意味を持つのか

https://www.youtube.com/watch?v=DDkxUMlSWwc

カテキズム要約の第513番「人間にとって仕事はどんな意味を持つのか」。

人間にとって仕事は義務であり、同時に権利です。人は仕事を通して創造主である神に協力します。実際、熱意と能力をもって働くことで、人は自分の本性に刻まれた力を現実化し、創造主から与えられた賜物と才能を生かし、自分と家族の糧を得、さらに人間共同体に仕えることができます。加えて、神の恵みによって仕事は聖化の手段となり、他者の救いのためにキリストと協働する道ともなり得ます。

「仕事は呪いだ」と言われることがあります。「お前は額に汗してパンを食べる」という創世記の箇所を引いて、そう理解するわけです。しかしそれは歪んだ理解です。原罪の結果として、仕事には確かに人間にとって重荷となる面、犠牲を要する面が入り込みました。けれども、仕事そのもの自体は、原罪が与えた傷とは別に、神からの賜物です。神は世界を創造されましたが、すべてを完成済みにして人間を置かれたのではなく、人間の働きによってその業が仕上げられていくことを望まれました。創造のわざに協力できることは光栄です。創造主は神のみですが、人間は被造世界の中で神に協力する者となるのです。

要するに、仕事は神からの賜物であり、私たちにとっては権利であり義務です。仕事によって人が尊厳を深めることができるという意味で権利であり、同時にその協力を果たすべき責任として義務でもあります。

この項目は具体的な点も照らしてくれます。たとえば「熱意」と「能力」の両方が必要だという点です。熱意はあるが能力が弱い人もいれば、能力は高いが熱意が薄い人もいます。だからこそ、態度(attitude)と適性・技能(aptitude)の両方が必要です。専門性を身につけ、物事をきちんと行う力。そして奉仕の姿勢、粘り強さ、自己犠牲の心。両方が一つになってこそ、仕事は実を結びます。

そして、真の熱意を持って仕えようとする人は、やがて能力も身につけていきます。こうして人は、神から受けた賜物を仕事の中で現実に開花させていきます。神の賜物は最初から完成形で与えられるというより、芽のような状態で託され、それを用いることで育ちます。才能は使えば伸び、埋めれば育ちません。仕事は、神からいただいた才能を育てるすばらしい場です。

よくなされた仕事は神を賛美します。たとえば見事な橋や長大なトンネルを見たとき、多くの知恵と多様な職能が結び合わされていることに気づき、神をたたえずにはいられません。

同時に仕事は家族を支える手段でもあります。働く人は大切な人のことを思っています。原罪の影響により、仕事に苦しさが伴うことはあります。それでも、家族の生活を守るために働くのです。さらに家族だけでなく、共通善のためにも働きます。「よりよい世界のために、手抜きではなく、きちんと働く」。そうして世界の秩序に自分の分を差し出すのです。

このようにして第513番は結ばれます。仕事は聖化の手段である、と。仕事は私たちを清めます。償いの意味も持ちます。苦しさを引き受け、時間を捧げ、簡単ではない条件の中でも働き続けるとき、暑い日にも「この働きを私の清め、罪の償いとして神に捧げよう」と十字架を抱くことができます。そういう文脈で、仕事は本当に人を聖化します。

さらに、人は自分の仕事を捧げることで魂の救いに協力できます。自分の召命に応じてです。説教者は説教で奉仕しますが、働く人は自分の労働を魂の救いのために捧げます。エウカリスチアの祭壇に置く大きな奉献、それが日々の仕事です。神がそれを受け取り、魂の救いのために喜ばれる捧げものへと変えてくださるよう願うのです。[Música]

DOCAT 135-136 仕事は神の罰なのか

https://www.youtube.com/watch?v=SegI5Bn1ZCc

若者のためのカトリック教会社会教説 DOCAT、ホセ・イグナシオ・ムニージャ司教の解説です。[música]

第135番「仕事は神の罰なのか」。

答えはこうです。原罪のために仕事は神の罰だと繰り返し語られますが、それは正確ではありません。創造の記述によれば、仕事は人間の本質的要素です。創世記2章15節で、人はエデンの園を守り育てるよう神から命じられています。

その後、アダムとエバが神の命令を破ったとき、「善悪の知識の木からは食べてはならない」(創世記2:17)という言葉に背いた結果として、土地は「労苦して耕す」対象となります。土はやせ、家族を養うために人は重い苦労を引き受けねばならなくなりました。

それでも聖書的視点では、原罪に対する神の罰は「仕事そのもの」ではなく、「仕事をする労苦」のほうです。

ここが大切です。仕事は神の罰ではありません。仕事は神から与えられた召命です。世界を変えていく召命であり、人が成長し成熟する主要な道の一つです。

区別すべき点はこれです。原罪の結果は「今から仕事しろ」という意味での仕事そのものの発生ではありません。そうではなく、仕事を不自然で、幸福に逆らうもののように感じるゆがみが生じたことです。「できれば働きたくない」というため息。それが原罪の影響です。

スペイン語に「罪の中に罰がある(En el pecado lleva la penitencia)」ということわざがあります。原罪の結果を単純化して「神が気まぐれに罰を与えた」と考えるのは適切ではありません。罪とは神の計画との断絶です。断絶には必然的な結果があります。ガラスを割れば、寒さや暑さが入り込むのと同じです。

神は本来、私たちを多くの害から守っておられました。ところが人間が自由を誤用してその保護を壊すと、結果として欲情(concupiscencia)などのゆがみが入ってきます。欲情それ自体は罪ではないが、罪の結果です。仕事についても同様で、仕事を平安を奪うものとして感じる内的分裂は罪の結果です。

ですから「神の罰」という表現は、聖書にあるとはいえ、その核心は「神の計画を壊したことから生じる結果を、神が尊重される」という意味です。神は「さあ復讐だ」と言っておられるのではありません。

しかし神は腕を組んで見ているだけでもありません。神は人間を贖い、「罪の理由となったものを、恵みによって贖いと聖化の場へと反転させる」ことができます。

原罪によって仕事が幸福を奪うものに感じられるなら、贖いとは何でしょうか。贖いとは、仕事を充実へと向かわせることです。キリストの贖いは、仕事を清めの道、自己奉献の道、隣人への奉仕、愛の表現として生きるよう私たちを導きます。罪が仕事を「いやなもの、苦しいもの」にしたなら、贖いは仕事を「人を満たすもの、愛を表す場」へと変えるのです。

DOCATには美しい例えがあります。

「3人の石工に『何をしているのですか』と尋ねた。1人目は『石を削っている』。2人目は『尖頭アーチを作っている』。3人目は『大聖堂を建てている』と言った。」

3人とも事実を言っていますが、喜びの深さは違います。「私は大聖堂を建てている」と自覚して働く人は、同じ作業でも全く違う心で働きます。

「一日中石を叩いているだけだ、何のためか分からない」と思うのか、「私は大きな神の業に参加している」と思うのか。仕事の体験は大きく変わります。

罪が仕事を押しつけのように感じさせたとしても、キリストの贖いは仕事を別のまなざしで見させます。

「主よ、あなたは私に、この大聖堂づくりに、つまり世界を神の家として築く業に協力させてくださる」。この見方は本当に違います。[música]

若者のためのカトリック教会社会教説 DOCAT、ホセ・イグナシオ・ムニージャ司教の解説をお聴きいただきました。音源は radiomaria.es で聴けます。[música]

DOCAT、若者のためのカトリック教会社会教説。ホセ・イグナシオ・ムニージャ司教の解説です。[música]

第136番(「職業と召命」)

「働く義務は存在するか」。

答え:神は地を創造し、それを尊い贈り物として人間に委ねられました。ゆえに人間の労働は、聖書の語りにおいて、神の贈与への感謝の応答です。職業に就くとき、あるいは子どもや若者が学校や訓練で仕事に備えるとき、それは単に生活費のためだけではありません。人は仕事を通して世界のよい発展に貢献し、ある意味で神の創造の業に参与するのです。

「働く義務があるか」という問いは、現代には刺さる問いです。失業が深刻な時代には、人々は仕事を義務よりまず権利として訴えます。それは当然です。しかし景気がよくなると、今度は仕事の深い召命性を見失う誘惑も出てきます。

この第136番が強調するのは次の点です。仕事は「生計手段」という実利だけで評価してはならない。仕事をそれだけに縮めるのは、あまりに物質主義的です。仕事は「生きるためのお金」以上の意味を持っています。

仕事は、創造という贈り物に対する感謝の応答です。神の創造が贈り物だと認め、その恵みに人がどう応えるか。それが仕事です。仕事とは、創造の歩みを神と共に進める参与だからです。

仕事の召命は決定的に重要です。ここで2つの引用が示されます。教皇フランシスコとマルティン・ルーサー・キングです。

キングの言葉:

「もしあなたが街路を掃く役目に召されたなら、ミケランジェロがフレスコ画を描いたように、ベートーヴェンが作曲したように、シェイクスピアが詩を書いたように掃きなさい。天と地の軍勢が立ち止まって『ここには自分の仕事を立派に果たした偉大な清掃人が生きていた』と言うほどに。」

この言葉が示すのは、仕事の物質的内容だけで価値が決まるわけではない、ということです。神の愛への応答という鍵でなされるなら、どんな仕事にも完全な尊厳があります。

最も大切なのは、仕事が世界をどう変えるかだけではなく、仕事が自分をどう変えるかです。よく働くことで人は尊厳を深めます。

吊り橋を設計する技師と、橋を掃除する清掃員。物質的尺度だけ見れば前者が「重い」仕事に見えるでしょう。しかし本質はそこだけではありません。私たちは「内面の変容を通してこそ世界は変わる」と信じます。自分が変わらなければ、世界も変わりません。

だからこそ、マザー・テレサの強調が生きてきます。「何をするかより、どれだけ愛を込めるか」。

彼女の有名な言葉もあります。「愛のない仕事は奴隷状態である」。

橋を設計する技師が愛なしに働けば、彼は奴隷です。反対に橋を掃く人が愛と献身をもって働けば、その仕事は彼を尊くします。繰り返しますが、最重要なのは外的変化より内的変化です。そして内的変化からこそ、世界を変える力が生まれます。

だから私たちは、喜びをもって働くよう招かれます。愛をもって働くなら、仕事は重荷だけではなく、時に安らぎにもなり、鎖ではなく解放にもなります。

前項ともつながります。仕事は「失楽園の呪い」ではなく、「失った楽園を再び味わうための道」になり得ます。そのためには、仕事を「創造という賜物への感謝の応答」として生きる鍵が必要です。

教皇フランシスコ『ラウダート・シ』128番:

「仕事は必要であり、この地上での人生の意味の一部であり、成熟への道であり、人間的成長と自己実現への道である。」

この言葉が示す通り、神の計画において成熟に仕事は欠かせません。仕事なしに人が成熟するのは非常に難しい。

聖ヒエロニムスも言います。「常に何か善い働きに従事していなさい。そうすれば(悪しき者は)あなたを怠惰の中で見いださないだろう。」

働かない人は誘惑に対して弱くなりやすい。だから、召命として、決断をもって働くことは成熟に属しています。[música] [música]

若者のためのカトリック教会社会教説 DOCAT、ホセ・イグナシオ・ムニージャ司教の解説をお聴きいただきました。音源は radiomaria.es。[música] [música]

DOCAT 137-138 イエスは仕事をどう見ていたか

https://www.youtube.com/watch?v=qTkdIVEYZgY

若者のためのカトリック教会社会教説 DOCAT、ホセ・イグナシオ・ムニージャ司教の解説です。

第137番「イエスは仕事をどう考えていたか」。

カルケドン公会議が言うように、イエスは罪を除いてすべてにおいて私たちと同じになられました(カトリック教会のカテキズム467番)。イエスは漁師、農民、職人たちと共に生き、職業教育を受け、30歳までヨセフの工房で大工として働きました。たとえ話でも日常労働のイメージを用い、忠実に働く僕をほめ、才能を土に埋める怠惰な者を戒めています。

仕事は、学校でも職業生活でも、重い義務に感じられることがあります。しかし私たちは、イエスから、日々の十字架をともに担い、主に従うことを学ぶべきです。主が私たちを贖うために十字架を担われたからです。

この問いに対して、イエスが示すことは何でしょうか。

第一に、イエスは御父を啓示する方として、働きを引き受けられました。ギリシア神話的な偶像の神々のように「労働は下層のもの」として退けるのではなく、御子ご自身が仕事を担われたのです。キリスト論では「引き受けられなかったものは贖われない」と言います。イエスは罪を除いて私たちに似た者となられた。つまり労働生活も含めてです。労働という成長の法則を、主はご自分で引き受けられた。だから贖われた。ここは重要です。

第二に、イエスは当時の働く人々のまっただ中で生きられました。漁師、農民、職人。福音には労働世界に根ざした比喩が満ちています。漁のたとえ、畑や種のたとえ、羊飼いのイメージ。イエスはその世界の中で自然に育たれました。

第三に、イエスは父ヨセフと共に働き、工房で協力されました。

ここで少し興味深い注解的な話があります。ナザレ帰郷の場面で、マルコ6:3は「この人は大工ではないか、マリアの子ではないか」と記します。一方マタイ13:55は「この人は大工の子ではないか」と言います。

一方は「大工本人」、他方は「大工の子」。この違いから推測できることがあります。イエスは主に父と共に工房で働かれ、父亡き後に単独で働いた期間は長くなかったのではないか、ということです。もしヨセフ死後の単独大工期間が長ければ、「大工の子」より「大工」としてのみ記憶されたはずだからです。もちろんこれは注解上の一つの推測ですが、興味深い点です。

そして仕事に関するイエスの最も力強い教えは、マタイ25章14-30節の「タラントンのたとえ」でしょう。タラントンは通貨単位でもありますが、私たちに託された才能として読むことができます。才能は埋めるためでなく、実らせるためにある。神が与えた賜物を発展させないことは、神のご計画に逆らう重大な問題です。私たちは、仕事の中で神からの才能を伸ばすために造られています。

最後に、仕事は尊厳と成長の召命である一方、時に状況次第で非常につらくもなります。その時、イエスは「日々の十字架」を担う道を教えてくださいます。決意をもって十字架を抱くとき、神はその道を通して私たちを聖化されます。仕事が特に重く感じられる時期にも、キリストの十字架は光となり、やがて栄光へと変えていきます。

El Docat(若者のためのカトリック教会社会教説)、ムニージャ司教の解説をお聴きいただきました。すべての音源は radiomaria.es。

DOCAT解説続編。

第138番「仕事と職業的成功は、人間の人生の本来の目的とどのような関係にあるか」。

答え:仕事は人生の一部であって、人生そのものではありません。先進国では「働くために生きる」ようになってしまう人が多く、仕事は中毒のようになることがあります。いわゆるワーカホリックです。イエスは、このような労働の奴隷化の危険を警告されます。

人間の人生の目的は、お金の蓄積や名声の獲得ではなく、祈り、神との出会い、礼拝、そして生きた愛徳を通して、神における永遠のいのちに到達することです。この目的に従う仕事こそキリスト者の仕事であり、仕事それ自体を目的化する生き方や、人生の本来の目的を曇らせる仕事観ではありません。後者では、仕事の重みづけが誤ってしまいます。

とはいえ、多くの人は家族を養うために複数の仕事を抱え、非常に厳しく働かざるを得ません。家族への奉仕としてそれを行うなら、それは神の御旨にかなっています。

この第138番は実際的です。「仕事は人生の一部だが、人生そのものではない」。よく言うように「生きるために働くのであって、働くために生きるのではない」。

現代で仕事が偶像化する道は大きく2つあります。ひとつは金銭欲。もうひとつは名声欲です。後者も同じくらい危険です。

荒れ野の誘惑でも、悪魔はイエスに「所有」への誘惑を向けました。「これらの国々を与えよう」。しかし同時に「神殿の頂から飛び降りて、称賛されよ」という「名声」の誘惑もありました。仕事の場でも、昇進、評価、承認は偶像になり得ます。

自己評価の土台が弱いと、人は「重要だと感じるため」に仕事へ過度に依存します。「ここでは自分が必要とされる」「ここでは認められる」と。すると奉仕の仮面をかぶった名声中毒が起こりやすい。お金への執着は見えやすいですが、名声への執着は善意に偽装されやすく、自己欺瞞に陥りやすいのです。

そこで大切なのは価値の序列です。「名声」と「有能であること(仕事を正しく行うこと)」のどちらを上に置くか。

たとえば、オフィスの問題を本当に解決できる力が自分にあるが、誰にも気づかれない場合。

逆に、実は他人の案を流用しただけなのに、自分が解決者として称賛される場合。

どちらを選ぶか。

本来、価値序列は「名声より誠実な有能さ」が上であるべきです。

さらに現実には、十分に人間的な条件の仕事を選べない人もいます。過酷で、人格をすり減らす働き方をせざるを得ないこともある。そのときは、家族のため、自分のために、よりよい労働条件へ移るべきかを識別する必要があります。けれど「今は代替手段がなく、家族を守るために受け入れざるを得ない」局面もあります。その場合、その苦しさを主に捧げ、家族のための愛として引き受ける道もあります。

こうした識別は簡単ではありません。多くの人が実際に経験してきた識別です。大切なのは、内側が燃え尽きた反動だけで決めないこと。「もう限界だ、だから即やめる」という反応だけでは危うい。神の前で平安を取り戻し、利点と不利を見て、比例性や代替案、待つべき時かどうかを丁寧に見極めることが必要です。

仕事は人生の究極目的に統合されるべきです。究極目的とは、神との交わりに向けて成熟し、家族の交わりを育てることです。すべての仕事が同じようにこの目的を助けるわけではないからこそ、識別が重要です。

以上、第138番の解説でした。

若者のためのカトリック教会社会教説 DOCAT、ムニージャ司教の解説をお聴きいただきました。すべての音源は radiomaria.es。

第188番 信徒の固有の召命とは何か

https://www.youtube.com/watch?v=KWkWmJvGGrw

カテキズム要約 第188番。

「信徒の固有の召命とは何か」。

答え:信徒の固有の召命は、現世的現実を神に従って照らし、整えながら、神の国を求めることです。このようにして、すべての受洗者に向けられた聖性への招きと使徒職への招きに応えます。

司祭・修道者・信徒には共通点が多くありますが、信徒固有の特色は何か。これは非常に重要な問いです。

『ルーメン・ゲンティウム』31番の要旨を読みます。

信徒は、現世の現実に携わり、それを神に従って秩序づけることによって神の国を求めるよう召されています。特に彼らには、密接に結びついた現世的現実を福音の光で照らし、キリストに従って発展させ、創造主と贖い主の賛美へ導く使命があります。

つまり信徒の固有の召命は、単に聖堂内の補助役になることだけではありません。もちろんその奉仕も必要ですし、司祭が届かない部分を助ける働きも大切です。しかし最も固有なのは、神が置かれた現場で現世を聖化することです。

たとえばジャーナリストなら、その職業を聖化すること。報道は道徳的リスクの高い職業でもありますが、真理への奉仕によってキリストを証しすることができます。

芸術家や音楽家なら、人の魂を神へ高める表現を生きること。

画家も同じです。すべての職業、日々の営み、友情、社会関係、余暇の関係まで含めて、信徒が神の国を現前させる舞台になります。

要するに、信徒のもっとも固有の使命は世界を聖化し、時間的秩序全体をキリストに向けて整えることです。仕事、余暇、社会関係のすべてをキリスト化すること。

この意味で信徒は、教会が世界を聖化する最前線です。キリスト者がいるところにキリストがおられ、世界がキリスト化されていきます。

そのために、時に信徒は連帯して働きます。教育分野などでキリスト者が協力し、福音を具体的に現すことがあります。個人として行う場合もあれば、共同体として行う場合もある。形は違っても本質は同じです。世界の中でキリストを現すことです。

もちろん教会共同体の内部でも、信徒は非常に重要です。牧者は信徒の協力なしに実りある働きを続けることは難しい。ある人が言ったように「ピアニストに指が必要なように」、牧者にも緊密な協力者が必要です。説教が届きにくい場所にまで言葉を届けるためにもです。

証しの要素も決定的です。若者に福音を届けるには、若者自身の証しが必要です。若者を若者によって福音化する。

大切なのは、信徒がこの固有の召命を発見することです。世界のただ中で、パン種として、発酵させる力として、キリストを現すこと。この世界は、キリストの賜物を必要としています。人のいのちと幸福のために。[Música]