告解の秘跡をよりよく生きるための実践的アドバイス
告解の秘跡をよりよく生きるための実践的アドバイス
今日お話ししたいのは、ゆるしの秘跡(告解)についての実践的な助言です。この秘跡をもっとよく祝えるようになるための話です。カトリック教会のカテキズムでも、この秘跡は詳しく扱われています(1422〜1498)。もちろん、ここですべてを語り尽くすことはできません。

1. まず「イメージ」から入る
私たちの時代はメディアの影響が強く、言葉よりもイメージが力を持ちやすい文化です。これは危うさもあります。神の啓示は本来「言葉」によって与えられました。福音書は、イエスが背が高かったか、髪や目の色がどうだったかは語りません。けれど、イエスの言葉は伝えます。
それでも、イメージが大切なのも事実です。教皇フランシスコの教皇職を象徴する場面として、私は二つの姿が心に残ると思います。一つは、サン・ピエトロ広場で病に苦しみ顔が変形した人々を、教皇が深い憐れみで抱きしめる姿。もう一つは、教皇ご自身が告解している姿です。
この教皇職の中心的直感として、私は「いつくしみの特別聖年」と、その中で始まった「主のための24時間」を強調したいです。教会が開かれた扉を持ち、いつでも人を迎え、罪をゆるす共同体であるようにとの招きです。これは、しばらく告解から遠ざかっていた多くの人にとって、習慣を取り戻す大きな機会になります。
全免償を受けるためにも、聖なる扉をくぐるしるし、痛悔、告白、教皇のための祈り、信仰宣言(クレド)などが求められます。だからこの聖年は、告解という宝を再発見する機会です。
2. 告解者の五つの行為に沿って
実践的な助言は、告解者の五つの行為に沿うのが一番よいでしょう。①良心の糾明、②罪への痛悔、③償いの決心、④司祭への告白、⑤償いの実行です。
3. 良心の糾明(第一の助言)
告解の準備としての良心の糾明は、祈りとは別の作業ではありません。良い良心の糾明とは、神の前に立つ祈りそのものです。聖霊に光を願い、「神のまなざしで自分を見る」ことです。
それは、自己中心的な内省や心理テストのようなものではありません。目に指を突っ込むような完璧主義でもありません。まず聖霊への祈りから始めます。「神を知ることによって自分を知れ」という古代の教えの通りです。聖テレジアも「神を知ろうとしないなら、自分を知り尽くすことはない」と言います。
逆説的ですが、神から遠いほど自分を罪人と思いにくく、神に近いほど罪が見えるようになります。理由は単純で、光が増えると見えるからです。聖テレジアは、窓を開けて日光が差し込んだときに初めて机のほこりが見えた、という美しい比喩を使います。ほこりは前からあったのです。光がなかっただけです。
C.S.ルイスも「人は善くあろうと努力して初めて、自分がどれほど悪いかを知る」と言います。風の強さは、向かって歩くときにわかるのと同じです。
同時に、神に近づくほど善も見えるようになります。謙遜とは「私は最低です」と言うことではなく、真実に生きることです。つまり、罪も徳も、神の前で正しく見ることです。
良心の糾明の助けとして最も古典的なのは十戒と教会の掟ですが、それだけに限定しない方がよいです。真福八端、七つの元罪、対神徳と枢要徳、聖パウロが語る愛の特徴、福音のあらゆる箇所など、啓示には多くの助けがあります。
「私はどう見えるか」ではなく「神は私をどう見ておられるか」が決定的です。人は自分の気になる罪だけを持って行きがちです。それ自体は悪くありませんが、神の優先順位は私の優先順位と一致しないこともあります。だから複数の角度から糾明することが必要です。「あなたのみことばは、私の歩みを照らすともしび」です。
4. 罪への痛悔(第二の助言)
最も本質的なのは痛悔です。放蕩息子のたとえは「慈しみ深い父のたとえ」と呼ばれることがありますが、中心は神の愛の前での痛悔の出来事です。
ここで驚くかもしれない大事な点があります。告解する前に、すでに神からゆるしを受けている場合があり得る、ということです。どういう意味か。聖体では司祭の聖変化の言葉が決定的瞬間ですが、罪のゆるしは「完全な痛悔」が起きる瞬間に与えられることがあります。
ただし、痛悔は必ず「告解に行く意思」と結びついていなければなりません。痛悔と告白を切り離してはいけません。危篤などで告解に行けない場合も、教会は完全な痛悔と、機会ができたら告解する決意を勧めます。
不完全痛悔(神への愛そのものより、罪の害や罰への恐れからの悔い)の場合、秘跡の赦しがその不足を満たします。この区別を知ることで、痛悔の祈りがどれほど大切かが見えてきます。
「主イエス・キリスト、まことの神、まことの人…」と子どものころに覚えた痛悔の祈りでも、別の祈りでもかまいません。大切なのは、神への愛と悔いが同時にあることです。神を愛しているからこそ悲しみ、神がゆるしてくださるからこそ喜ぶ。この二つは同じコインの裏表です。
5. 償いの決心(第三の助言)
痛悔に続いて「これからどう変わるか」を具体化するのが償いの決心です。「もう絶対に二度としない」と人間的確実性で言い切ることは実際には難しい。聖パウロも内なる葛藤を語っています。
それでも必要なのは、識別です。何を変えれば誘惑に対する「力関係」が変わるかを考えることです。ナポレオンは「戦いは地図の上で決まる」と言ったそうです。配置次第で勝敗が決まる。霊的生活でも同じです。
福音はとても実際的です。誘惑は最初の瞬間に断つこと。育ってから戦うのでは遅い。悪と対話し続けない。必要なら思い切った決断をする。「もしあなたの手がつまずかせるなら切り捨てよ」という厳しい表現は、この現実的決断を示しています。
例えば酒でつまずく人なら、家にアルコールを置かないという具体策が必要です。何をどう変えるかは各自の「小さな実践」に落とし込まれなければなりません。
6. 司祭への告白(第四の助言)
教皇フランシスコは著書『神の名は慈しみ』で、「神に直接謝れば十分ではないのか。なぜ司祭に告白するのか」という現代的な問いに答えています。司祭はキリストの代理として働くだけでなく、教会と兄弟姉妹をも代表するからです。
罪は神だけでなく共同体を傷つけます。だから告白は社会的次元を持ちます。自分一人で鏡に向かって済ませるのではなく、他者の前に真実に立つ行為です。
もう一つの理由は、司祭が識別を行うことです。福音は「あなたがたが赦すなら赦され、留めるなら留められる」と語ります。告解者の悔い改めが赦しを受けるに足るかどうかを、司祭が奉仕として見分ける役割です。
実践的助言はシンプルです。回りくどくしないこと。隠さないこと。私のカテキスタ修道女は「いちばん言いにくいことを最初に、率直に言いなさい」と教えてくれました。これは本当に助けになります。
教皇フランシスコも、子どもの告白の率直さを称賛します。大人は抽象語でごまかしがちですが、子どもは具体的です。「悪い言葉を言いました」とだけでなく、実際に何を言ったかまで言える。この単純さこそ真実です。
恥ずかしさを感じること自体、恵みです。恥を知らないことより、恥を知ることの方が霊的に健全です。
また、共同告解と集団赦免は本来「例外的形式」です。死の危険など特別な状況のためで、通常形態の代替ではありません。これが常態化すると大きな害になります。さらに、個別告白でも「私は罪人です」だけの抽象告白では不十分です。それはミサの共同告白でも言うことです。秘跡の告白は具体的であるべきです。
7. 償いの実行(第五の助言)
教会初期には、償いを果たした後で赦しが宣言される時代もありました。今は通常、告白して赦しを受け、その後に償いを行います。
大切なのは、償いを「赦しが足りない分の支払い」と誤解しないことです。赦しは完全に無償で、完全です。けれど罪は、神への侮辱に加えて、私たちの内面に乱れを残します。償いはその乱れを癒やすために必要です。
たとえるなら、親が留守中に家で大騒ぎして散らかした子が、親から本当に赦されたとしても、家を片づける責任は残ります。それと同じです。
聖フランシスコ・ザビエルの逸話もあります。重い罪を告白した人に、彼は穏やかな態度で赦しと軽い償いを与えました。しかしその後、ザビエル自身がその人のために深い償いをしている姿を見て、その人は本当に回心したと言われます。聖人はその人自身以上に、その罪を重く受けとめていたのです。
私たちは時に償いを「象徴だけ」にしてしまいがちです。もちろん短い祈りの償いも意味がありますが、教会は償いが教育的・相応的であることを求めます。例えば貪欲を告白した人には施し、怠惰を告白した人には勤勉の実践、といった具合です。
告解者が司祭に「自分にはこの償いが助けになります」と提案することも、教会の規律の中で可能であり、勧められる場合があります。
8. 現実の中で深めていく
もちろん、いつも五つを丁寧に長く準備できるわけではありません。ミサ中に短く告解できる機会もあります。それが理想形ではないとしても、教会は人を助けるために実際的に門を開きます。誰かが一歩を踏み出す姿を見て、別の人も戻って来られるからです。
けれど、告解の価値を再発見したなら、機械的・表面的にならないよう、五つの歩みを少しずつ深めるべきです。そうしてこそキリストとの出会いは本当に変容をもたらします。
9. 司祭にとっての告解の喜び
司祭にとって告解奉仕は確かに骨の折れる務めです。人が次々に来れば疲れます。それでも、司祭人生で最も大きな喜びの一つがここにあります。新しく生まれる魂を目の前で見るからです。
世の目には見えない回心の奇跡に立ち会える。これは司祭にとって深い恵みです。天で一人の罪人の回心を喜ぶ歓びを、司祭は具体的に味わいます。神のゆるしは奇跡です。
「ペルドン(perdón)」という言葉にも、贈り物(don)の強調が響いています。神の賜物の中で、最も大きな賜物の一つが「赦し」です。新しく生まれ直し、人生をやり直せる恵みです。
だから司祭はこの奉仕をもっと優先すべきですし、信徒の皆さんも遠慮せず告解を求めてください。第一に皆さん自身のために。第二に、司祭にとってもそれが恵みになるからです。
10. この秘跡の多くの名前
この秘跡には多くの名があります。回心の秘跡、償いの秘跡、告白の秘跡、ゆるしの秘跡、和解の秘跡。どの名も大切ですが、初代教会が与えた名で全体をよく表すものがあります。それは「第二の洗礼」です。もう一度、洗礼の恵みに生きるための秘跡です。
父と子と聖霊に栄光が、初めのように今もいつも、世々に至るまで。アーメン。