「わたしたちを誘惑におちいらせず」
「主の祈り」の願いにはそれぞれ順序があり、互いに密接に結びついています。
第六の願い「わたしたちを誘惑におちいらせず」は、一つ前の願い、すなわち神に私たちの過ち(罪)のゆるしを求める「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という願いと直接つながっています。
この新しい願いにおいて、私たちは罪を犯さないように助けを求めることで、より問題の「根源」へと向かっています。これはより効果的なアプローチです。なぜなら、「罪をゆるしてください」という願いは、「誘惑におちいらせず、罪を犯さないように助けてください」という願いによってこそ完成するからです。
しかし、誘惑とは何か、そしてそれに対抗するためにいかに神の恵みが必要かをお話しする前に、まず、この願いを各国語に訳す際に生じる「翻訳の難しさ」について、少しお話しさせてください。この願いをスペイン語や他の言語でどう表現するかについては、ある種の難しさが存在するのです。
「主の祈り」の翻訳に隠された難しさ
福音書の原典はギリシャ語で書かれました。それを聖ヒエロニムスがラテン語に翻訳した際、彼は 「et ne nos inducas in tentationem」 と訳しました。これは直訳すると「わたしたちを誘惑に導かないでください」あるいは「わたしたちを誘惑に踏み込ませないでください」となります。これがラテン語の直訳です。
しかし、この一節を現代の言葉に訳すにあたり、教会はより教育的で、分かりやすく、理解しやすい表現として「わたしたちを誘惑におちいらせず(スペイン語:no nos dejes caer en la tentación)」を選びました。
ここには説明が必要です。なぜなら、聖ヒエロニムスのラテン語を文字通りに受け取ると、「神が私たちを誘惑に引きずり込む」かのように聞こえてしまうからです。しかし、神が私たちを誘惑に陥れることなどあるでしょうか?ありません。だからこそ教会は、信者がすんなり理解できるように配慮したのです。
それでも、この黙想の機会に、なぜ原典がこれほど複雑な表現になっているのかを考えてみる価値はあります。
例えばイタリア語の例を見てみましょう。フランシスコ教皇は2018年、イタリア語訳の変更を承認しました。それまでイタリア語では、ラテン語直訳に近い「non ci indurre in tentazione(わたしたちを誘惑に導かないでください)」と訳されていましたが、これだと神が誘惑に引き込むように聞こえるため、「non abbandonarci alla tentazione(わたしたちを誘惑に見捨てないでください)」へと変更されました。
「試練(試み)」と「誘惑」の決定的な違い
この翻訳の混乱を理解するには、「試練」と「誘惑」を区別する必要があります。ギリシャ語の原典で使われている 「ペイラスモス(peirasmos)」 という言葉は、「誘惑」とも「試練」とも訳すことができる言葉なのです。
私たちは、神がけっして人を誘惑なさらないことを知っています。古代の教父テルトゥリアヌスも「神が私たちを誘惑すると信じることから、天が私たちを守ってくださいますように」と言いました。これは当然のことです。神は無限に優しい父です。子どもがパンを求めているのに、蛇を与える父親がいるでしょうか。神は決して私たちを誘惑しません。
しかし、神は私たちを成長させ、清め、聖化するために、「試練」にお遭わせになります。試練とは、清めと克服を私たちに求める困難な状況のことです。試練の場は、確かに誘惑が生じやすい場所(土壌)にはなりますが、試練そのものは誘惑ではありません。悪魔は神が与える試練を利用して人を誘惑しようとしますが、聖霊は、何が試練で何が誘惑かを見分ける力を私たちに与えてくださいます。
カテキズム(教会の教え)にはこう書かれています。
「聖霊は、人間の内的な成長に必要な『試練』と、罪と死に至らせる『誘惑』とを見分けさせます」
聖書には、試練について次のように書かれています。
- 知恵の書 3章5-6節:
「神は彼らを試練にかけ、ご自分にふさわしい者とお認めになった。るつぼの中の金のように彼らを吟味し、全焼のいけにえとして受け入れられた」 - ヤコブの手紙 1章2-4節:
「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に遭うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じると、あなたがたは知っています。その忍耐を十分に発揮させて、何一つ欠けたところのない、完成された、行き届いた人になりなさい」 - ヤコブの手紙 1章12-13節:
「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。乗り越えた者は、主を愛する人々に約束された命の冠を受けるからです。誘惑に遭うとき、だれも、『神から誘惑されている』と言ってはなりません。神は悪に誘惑されるような方ではなく、また、御自らだれかを誘惑なさることもないからです」
つまり、神は私たちを「試練」に遭わせますが、「誘惑」はなさいません。私たちは試練を通らなければ成長できませんし、地上での人間の命は一つの試練です。しかし、悪魔がその神の試練を利用して私たちを誘惑しようとするのも事実です。実際、私たちの生活の中で、試練と誘惑は表裏一体となって混ざり合っています。
したがって、この第六の願いの複雑さをすべて含めて翻訳するならば、次のようになるでしょう(これは教会公認のものではなく、私個人の説明の試みです)。
「主よ、あなたは私たちの成長のために私たちを試練へと導かれました。どうか、その試練の中で出会う誘惑の中に、私たちを置き去りにしないでください」
これがこの願いの深い意味です。試練は神から来ますが、神は私たちが誘惑を見分けるために聖霊の賜物を求めることを望まれています。
では、なぜ教会が現代語で「わたしたちを誘惑におちいらせず」という簡潔な表現に訳したのでしょうか。短く、教育的で、限られた言葉の中にこれらすべてのニュアンスを詰め込むのは、お祈りの中で混乱を招くからです。教会は母であり、教育者です。祈りを教えるときは、正確さはもちろんのこと、できるだけシンプルに教えようとするのです。
「誘惑されること」と「同意すること」の違い
「試練」と「誘惑」を区別するのと同様に、「誘惑されること」と「誘惑に同意すること」を区別することも重要です。
この祈りは「誘惑におちいらせず(負けさせないで)」と言っているのであり、「神様、誘惑を一切なくしてください」と願っているわけではありません。誘惑が存在することは、いわば前提となっています。願っているのは「その誘惑に負けて同意してしまわないように」ということです。
例えば、第十の掟(※原文では第8の掟と言及)で「みだらな考えを持ってはならない(みだらな思いを抱いてはならない)」と言うとき、それは「みだらな考えが頭に浮かんで(よぎって)はならない」という意味ではありません。そうではなく「みだらな考えに同意してはならない」と言っているのです。
悪い考えが頭に浮かぶこと自体は、人間のコントロールを超えていることが多く、それはただ周りを飛び回って邪魔をするハエのようなものです。大切なのは「それを持たないこと」ではなく「それに同意しないこと」です。ですから、私たちは「誘惑をなくしてください」ではなく「誘惑に同意しないよう、助けてください」と祈るのです。
この「誘惑されること」と「同意すること」を区別しないと、良心が過度に神経質(小心)になってしまい、「ああ、自分はこんな悪いことを考えてしまった、罪を犯した」とパニックになってしまいます。頭をよぎることと、それを自分のものにすることは全く別です。
頭に愚かな考えがよぎることは誰にでもあります。しかし「頭をよぎった」という言葉自体が示しているように、その考えはあなたのものではなく、ただそこを通りかかっただけです。通り過ぎるに任せ、自分のものにしなければそれでいいのです。
誘惑がもたらす「霊的な実益」
誘惑は神から来るものではなく悪魔から来ますが、神がそれを許されるなら、そこには霊的な実益があります。神の摂理において、誘惑も私たちを清める神の計画の一部になり得るからです。古代の教父オリゲネスは、カテキズムにも引用されている言葉で「ある意味で、誘惑は良いものである」と言いました。
なぜでしょうか。誘惑は、私たちの内側に何があるかを気づかせ、私たちがどれほど悔い改めと神の恵みを必要としているかを自覚させるからです。そうでなければ気づけません。
誘惑は、自分の内側にどれほど多くの「ヒキガエルやヘビ(醜い欲望や乱れ)」がいるかを暴き出します。「私の内側にはこんなにも無秩序があるのか」と気づき、神の恵みと悔い改めを求めるようになるのです。誘惑が来ると、私たちの内側にある「共犯者」がそれに呼応してしまいます。そこで初めて、私たちは自分の弱さを知るのです。
C・S・ルイスの素晴らしい言葉があります。
「自分がどれほど悪い人間であるかは、本気で善人になろうと努力してみるまでは分からない。風の強さを知るには、風に流されるのではなく、風に向かって歩いてみなければならない」
風に流されている間は、自分が流されていることに気づきません。「みんなが行く方へ行く」だけです。しかし、正しい道を進もうと逆風に向かうとき、初めて内側の無秩序に気づき、戦いが生じます。
砂漠の修道父たちの深いお話があります。修道士たちに憧れるある巡礼者が訪ねてきて、こう尋ねました。「修道士様、あなた方はここで本当に天使や悪魔を見るのですか?」
修道士は答えました。「そんなことは大したことではない。本当に難しく、かつ重要なのは、自分自身を見つめることだ」
自分自身の無秩序を見つめ、誘惑を見破ることは、天使や悪魔を見るよりもはるかに重要で難しいことなのです。誘惑にただ流されるだけなら、心は盲目になります。しかし戦うことで、人生の真実を発見し、「望むこと(意志)」と「したい気分(欲求)」は別物であると気づくことができます。
誘惑は魅力的に見えますが、「これはしたい気分だが、私が本当に望んでいることではない」と見分ける助けになります。また、聖パウロが「私はなんと惨めな人間か。自分が望む善は行わず、望まない悪を行っている」と語ったように、戦うことで内なる矛盾を知ることができます。
誘惑が入り込む「三つの門」:世・肉・悪魔
教会の伝統では、魂の三つの敵を「世(世俗)」「肉」「悪魔」と呼びます。誘惑はこの三つのルート(門)から来ます。
1. 世(世俗)の門
精神的に未熟な人は、自分が生きている世界に依存しています。世間の影響は非常に強く、本人は気づかないうちに考え方や感じ方、話し方、行動が「世俗化」してしまいます。すべては「人に気に入られたい」「周りと合わせたい」「悪口を言われたくない」「対立を避けたい」という欲望から来ます。
そうして人は簡単に世俗の基準に自分を合わせるカメレオンのようになります。周りがこうだから自分も、と流されるのです。自分自身の強いアイデンティティがなく、逆風に立ち向かう強さがなく、時には一人になる覚悟がなく、批判を恐れるなら、世間と同じように考え行動することになります。これが世俗化という誘惑の大きなルートです。
聖書は、この世の影響から自由であるように求めています。
- コリントの信徒への手紙一 7章23節: 「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。」
- ローマの信徒への手紙 12章2節: 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただきなさい」
聖書における聖化の道とは、この世の価値観から離れる(脱世俗化する)道です。イエスは「あなたがたはこの世に生きているが、この世のものではない」と言われました。
2. 肉の門
第二のルートは「肉」です。肉の誘惑とは、快適さや快楽への誘惑、つまり「最小の努力で最大の快楽を得たい」という快楽主義的な傾向です。
これに対して福音は「霊は燃えているが、肉体は弱い」とはっきり言います。したがってキリスト教は、現代では流行らない「克己(こっき)」「犠牲」「自己否定」「放棄」「脱所有」といった言葉を勧めます。これらなしに肉との戦いは不可能です。
私たちが「自己否定」と言うとき、それは自己を単に否定するのではなく、神と結ばれるための「究極の肯定」なのです。一時的な欲求(apetencia)を拒めない人は、本当の意味で自由ではありません。
若者たちとの対話:「望む」と「したい気分」の混同
私が少し前に、堅信式を控えた17〜18歳の若者たちと話したときのエピソードがあります。私は彼らに「『望む(意志:quiero)』と『したい気分(欲求:me apetece)』の違いは何だと思う?」と尋ねました。
彼らは答えに窮してしまいました。一人が「望むとは…したい気分のこと…」と答え、そこから抜け出せなくなりました。そこで私は例を挙げました。
「君のお父さんは今朝、工場に行くために何時に起きた?」
「5時(か6時)です」
「お父さんはその時間に起きたい気分(me apetece)だったと思うかい?」
「いいえ」
「じゃあ、お父さんは仕事に行くことを望んでいなかった(no quería)のかな?」
「いや、それは…」
私は言いました。
「お父さんは仕事に行きたいと望んでいた(quiero)んだよ。だからこそ自分で仕事を探し、その仕事を続けているんだ」
若者たちが「望む(意志)」と「したい気分(感覚)」を区別できないことに私は深く驚きました。現代文化は意志と欲求を混同させており、これは悲劇です。この区別がつかない人は、肉の誘惑に対して全く無防備になり、ウイルスに対して免疫がない状態になってしまいます。
ルカの福音書9章23節にはこうあります。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救おうとする者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」
3. 悪魔の門
第三のルートは「悪魔」です。これについては次の「悪からお救いください(悪魔からお救いください)」の願いで詳しく話しますが、ここでも少し触れます。
悪魔は単に世俗や肉を通じて誘惑するだけでなく、直接的には私たちの心から平和を奪い、不安、焦燥、暗闇、混乱を植え付けます。聖イグナチオ・デ・ロヨラも『霊操』でそう説明しています。また悪魔は嘘の父であり、善いことに見せかけてだまします。
例えばアビラの聖テレサに対して、悪魔は「謙遜のために祈りの時間を減らしなさい。そんなに祈っていると自分が聖女だと思い込んで高慢になる」と誘惑しました。
皮肉なことに、人が神に近づくほど、悪魔は直接攻撃してきます。なぜなら、その人には「世」や「肉」の誘惑がもう効かないからです。聖人たちが悪魔に直接攻撃されたのはそのためです。世俗や肉にまみれて生きている人に対しては、悪魔は直接介入する必要がありません。「もう手に入っている」からです。
私がズマサラ(Zumárraga)の教会で主任司祭をしていた頃、テレビで映画『エクソシスト』が再放送されました。これを見たある若者が、怖くて眠れなくなり、部屋の隅に光が見えると言って私のところに来ました。
私は彼にこう言いました。
「おいおい、よく考えろ。君は毎週末マリファナを吸い、彼女と遊び呆け、親を困らせている。そんな君の部屋で、悪魔がわざわざショーを開いて怖がらせる必要があると思うかい?そんな必要はないよ。君はもう悪魔の手の中にあるんだから」
彼はショックを受けていました。悪魔の働きは、通常は世俗や肉の誘惑を通じて行われるのです。
目を覚まして祈る:徹底的な福音の生き方
自分の人生でどのルートから誘惑が来るか振り返ることは大切です。おそらく全員が「三つすべてから」と答えるでしょう。だからこそ、目を覚まして祈ることが大切です。
イエスは「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と言われました。イエス自身、ゲッセマネの園で苦しみのなかで「共に祈ってくれ、この戦いを助けてくれ」と求められました。まして私たちはどれほど祈りと助けを必要としているでしょうか。私たちは常に心を見張る必要があります。「だれも二人の主人に仕えることはできない」からです。
誘惑に対しては、徹底的な態度で「きっぱりと断ち切る」ことが重要です。フランシスコ教皇が言うように「悪魔と対話をしてはならない。きっぱりと断ち切る」のです。
また、別の罪の背後に隠れている罪を暴くことも必要です。例えば、カインがアベルを殺した背後には「嫉妬や羨望」がありました。ある罪が別の罪を隠していることがあるため、その根源を暴く恵みを神に求める必要があります。
結び:なぜ「誘惑」は単数形なのか?
結論として、私たちは「誘惑におちいらせず」と祈り、目を覚ましている恵みを求めます。しかし、なぜ「様々な誘惑(複数形)」ではなく、「誘惑(単数形)」と表現されているのでしょうか。そこには二つの解釈があります。
- 誘惑の連鎖:
誘惑は連鎖しています。ダビデ王がウリヤの妻をみだらな目で見たことから始まり、姦淫、そして殺人へと連鎖したように、一つの誘惑は次を呼びます。「誘惑(の連鎖)におちいらせず」と祈るのはそのためです。 - 究極の誘惑(誘惑の中の誘惑):
伝統的に教父たちが語る「究極の誘惑」を指しているという解釈です。悪魔が様々な罪を通じて最終的に人を追い込もうとするゴール、それこそが 「絶望(desesperación)」 です。「自分はもうダメだ」と絶望させること。
あるいは、非常に高慢な人に対しては「神のようになり、自分で善悪を決める」という 「高慢」 の誘惑。あるいは、キリストへの信仰を捨てる 「背教(apostasía)」 です。これらこそが、救い主から私たちを切り離そうとする究極の誘惑です。
しかし、最後の結論は「目を覚まして祈りなさい」です。
神は私たちが誘惑に置き去りにされることを許されません。神は悪魔の誘惑さえも「試練」に変え、私たちを成長させ、より謙遜にし、神の恵みを求めさせ、次の戦いに備えさせます。神は悪魔のカードを使って、私たちの救いの歴史を描かれるのです。
ですから、最後を飾る言葉はこれしかありません。
「イエスの聖心、あなたに信頼します(Sagrado Corazón de Jesús, en Vos confío)」
私たちは戦いの最中にあっても、決してみ捨てられません。