夫婦関係における12の悪い習慣と12の癒やしの提案 (2)
プログラムの予定通り、この第2部では非常に実践的な内容をお話しします。第1部では、現代文化の限界や心の傷に直面しながらも、いかに聖性を目指すべきかという動機付けについてお話ししました。この第2部では、具体的なアドバイスを展開していきます。講話のタイトルは「結婚生活における悪い習慣の癒やし」です。2018年1月20日に『Religion en Libertad』に掲載されたデビッド・ウィルス氏の「最も強固な結婚生活をも台無しにする、習慣化しやすい12の過ち」という記事を参考に進めていきたいと思います。非常に実践的なタイトルですね。高潔な理想を語りながら、同時に極めてシンプルに具体化することは、カトリックのスタイルそのものです。私は霊的読書(黙想)を指導する際、聖イグナチオが神秘の観想と、その後の具体的で実践的な応用をいかに見事に結びつけているかを見るのが大好きです。超越的な神秘を眺め、それを日々の具体的な生活に当てはめることこそ、真の霊性の証なのです。
まず、神様は私たちの結婚の聖性に全面的に関与しておられるということを忘れないでください。神様は私たちが聖人になること、結婚生活が聖なるものになることを切に願っておられます。しかし同時に、私たちはそれぞれの過去や家族の歴史からくる「傷」を抱えて生きています。両親や親族から受けた恩恵には感謝すべきことがたくさんありますが、同時に限界や傷、受け継いでしまった悪い習慣もあるでしょう。「受け継いだ悪い習慣をそのまま引きずってはいけない」と自覚することは非常に重要です。自分自身が、負の連鎖の伝達者になってはいけません。家族の中では、無意識のうちに習慣が伝わります。攻撃的な話し方、プライバシーに踏み込みすぎる態度、無遠慮な振る舞いなど、本人はそれが自分の家庭では「普通」だったので気づかないのです。ですから、聖性を志すと同時に、実生活で「脱線」の原因となる細かな習慣、いわば車輪の間の小枝を取り除くことが大切なのです。
それでは、12の悪い習慣を見ていきましょう。1つ目は、「常に批判すること」です。常に他者を批判的に裁き、前向きな言葉の代わりに不満を口にすることが癖になっていませんか。これも、父親が常に否定的なことばかりを指摘する家庭で育った場合、知らず知らずのうちにその傾向を身につけてしまうことがあります。本人は善意のつもりでも、ネガティブな面ばかりを見ることは相手を疲弊させます。皮肉なことに、ネガティブなことばかり指摘していると、それを助長してしまうのです。なぜなら、希望を奪ってしまうからです。何度も欠点を突きつけられると、相手は「もう変われない」と諦めてしまいます。この過剰な批判は「完璧主義」の仮面をかぶることがあります。福音書には「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉がありますが、私たちの日常語での「完璧主義」と「聖性」は別物です。ここを混同すると大きな害になります。聖人にも欠点はあります。欠点があることと、罪を犯すことは同じではありません。すべての聖人は、自分の欠点と共存しながら聖化されました。欠点とは、育った環境や文化に根ざした個人の限界のようなものです。相手の欠点を責め立てることは、神の役割を奪うことです。その人の聖化のために神様がどのような計画を持っておられるか、私たちは知り得ません。神様はあえてその欠点を持たせたまま、別の道で聖性を高めようとされているかもしれないのです。聖パウロが「体に刺さった刺(とげ)を去らせてください」と三度願ったとき、主は「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われ、刺を抜きませんでした。ですから、他人の欠点を批判し続けるのは、神様を差し置いて自分が裁こうとする行為なのです。むしろ、「神様は私の聖化のために、この人を隣に置いてくださったのだ」と受け入れる感性を養いましょう。相手の美徳だけでなく、欠点を通してさえも、神様は私を聖めようとしておられるのです。
2つ目は、「すべてを『彼のもの』と『彼女のもの』に分ける」習慣です。持ち物、友人、趣味、そして銀行口座まで細かく分ける。これは最終的に関係を腐食させます。子供たちまで「これはパパの、これはママの」と言い始め、両親が一体ではないことを感じ取ります。結婚の本質は「一体(一つの体)」となることです。共有されない個人的な世界を持ち続けることは、最初は些細に見えても、いずれ大きな亀裂を生みます。ケニアにある巨大な断層の話をご存知でしょうか。地上からは気づかなくても、上空から見るといずれアフリカ大陸から分離する傾向が見て取れるそうです。結婚生活も同じです。足元では気づかなくても、俯瞰してみれば「いずれ分離する」傾向にあることがある。これを癒やすには、視点を「高める」しかありません。私たちは神のものです。「私のもの、あなたのもの」ではなく、私たちは二人とも神に属しているのです。パブロ・ドミンゲス神父が司祭叙階の際、父親に「お父さん、私はもう自分の所有物ではありません。神のものです。そして神のものとして、全世界のために尽くします」と言ったように、私たちは自分の所有権を神に明け渡しているのです。
3つ目は、「子育ての間、結婚生活を後回しにする」ことです。これは家族相談の場で非常に多く見られます。育児の大変さに圧倒され、夫婦関係が二の次になってしまう。しかし、子供が必要としているのはスーパーヒーローのような親ではなく、「互いに深く愛し合っている親」です。子供がいずれ自立したとき、彼らに残されるべき最大の遺産は「結婚とは何か、家族とは何か」という召命の証しです。現代、結婚を躊躇する若者が多いのは、親が「ヒーロー」であっても「愛し合う夫婦」としての姿を見せてこなかったからかもしれません。「パパとママがどれほど愛し合っているか」を見せること以上の教育はありません。嵐が過ぎ去るのを待ってから幸せになろうとするのではなく、「雨の中で踊る(困難の中でも愛を楽しむ)」ことを学んでください。
4つ目は、「互いに『残り物』を与える」習慣です。契約前のキャンペーンでは最高の商品を見せ、契約した後はどうでもいい番組ばかりを流すケーブルテレビのように、最初は最高に魅力的な自分を見せておきながら、結婚後は適当な態度(残り物)で済ませてしまう。愛に「完全な征服」はありません。常に更新され、征服し続けなければならないものです。これは前述した「聖性への回心」に関わります。かつての自分に安住するのではなく、今日、最善の自分を捧げるために、絶えず回心し続けることが家族への最大の贈り物です。
5つ目は、「恨みを抱き、借りを数える」ことです。感受性の強い人は注意が必要です。感受性は恵みですが、同時に執念深さや恨みにつながるリスクもあります。過去の傷を議論の武器にしたり、不満をぶちまけるために過去の汚点を持ち出すのは致命的です。子供を兄弟と比較して叱るのが間違いであるのと同様に、結婚生活で過去の出来事を持ち出すのは、「許しが本物ではなかった」ことを露呈させるだけです。詩編130編には「主よ、あなたが悪に目を留められるなら、だれが耐え得よう」とあります。神様は許すことによって敬意(畏敬)を呼び起こされます。恐怖ではなく、許すことのできる道徳的権威こそが真の敬意を生むのです。愛するためには、忘れる能力が必要なのです。
6つ目は、「約束(コミットメント)よりも感情を信じる」ことです。現代の人間観は乱れています。本来は「信仰が理性を照らし、理性が意志を導き、意志が感情を整える」べきですが、現代は「何がしたいか、どう感じるか」がすべてになっています。『いまを生きる(Dead Poets Society)』という映画がありましたが、あれは「最初の衝動こそが最も純粋で本物だ」という誤った概念を植え付けました。しかし、私たちには人間を乱す「原罪」があることを忘れてはいけません。感情は教育されるべきものであり、ロマンチシズムのように絶対視してはいけません。「隣の奥さんに惹かれる」という感情があったとしても、それは道徳的善に反するものであり、教育し、制御すべきものです。チェスタトンの言葉を借りれば、「愛が結婚を保護するだけでなく、結婚が愛を保護する」のです。愛は単なる感情ではなく「約束」です。感情が曇るときも、意志による愛(愛そうとすること)がそれを支えます。愛はハートに刺さったキューピッドの矢ではなく、イエスの聖心を貫いた槍の痛み(犠牲)の中にあります。
7つ目は、「相談せずに決断を下す」習慣です。相談されないことは自尊心を傷つけ、「自分はこのプロジェクト(家庭)に必要ない存在だ」と思わせてしまいます。独断専行は、傲慢さと誤った自立心の表れです。真のリーダーシップとは、自分ですべてをやることではなく、相手を動かし、成長させることです。神を信頼し、配偶者を信頼する。そのために「あなたの言う通りにしよう」という言葉を、投げやりではなく、信頼を込めて使うことが大切です。
8つ目は、「相手を変えようとする」ことです。配偶者の回心を願うのは良いことですが、それが「相手さえ変われば家庭は良くなる」という責任転嫁になってはいけません。神様があなたに変える力を与えてくださっている唯一の対象は、鏡の中にいる「あなた自身」です。相手をあるがままに受け入れ、愛すること。愛されていると実感できて初めて、人は変わる力を得ることができるのです。
9つ目は、「出口戦略(別離の可能性)を練る」ことです。これは非常に大きな過ちです。「もしダメになったら」と空想すること自体が、すでに絆を傷つけています。私は軍隊で衛生兵をしていたとき、除隊したいために自傷行為を演じる若者たちを見ました。私は司令官に言いました。「実際に切ったかどうかではなく、自傷を『演出』しようと考える時点で、その心はすでに病んでいます」と。結婚生活も同じです。離婚を仮定したり、駆け引きに使ったりしてはいけません。私たちの約束は、キリストが命を捧げたのと同じ「決定的なもの」であるべきです。困難な時には、聖イグナチオの教え通り「決断を変えない(不変)」ことが重要です。逃げるのではなく、霊的同伴や聖体礼拝の中に休息の場を見出してください。
10番目は、「既婚者としてのアイデンティティを隠す」ことです。社会の中で既婚者であることを曖昧にするのは、不誠実への第一歩であり、自分を誘惑に対して脆弱にします。私が学生時代、クリスチャンであることを隠さず「マーク(特定)」される道を選んだとき、それは大きな自由をもたらしました。神様の目だけを意識し、最初から既婚者、父であることを公言することは、自分を守る大きな恵みとなります。
11番目は、「ポルノグラフィを娯楽や逃避として見る」ことです。これは結婚生活の核に深刻なダメージを与えます。「バーチャルだから実害はない」というのは嘘です。画面の向こうには売買された生身の人間がおり、イエスが言われたように「情欲を抱いて女を見る者は、心ですでに姦淫した」のです。ポルノは人間を「モノ」として扱い、それは女性に対する暴力の根底にある所有欲や支配欲と繋がっています。インターネットの検索の3分の1がポルノであるという現状は、深刻な依存症を生んでいます。もしあなたが「嫌悪しているのにやめられない」なら、それは依存症であり、その背後にある心の傷を癒やすための個人的な同伴(カウンセリング)が必要です。
12番目、最後はすべてを包括する「利己主義(エゴイズム)」です。10の戒めが2つに集約されるように、これまでの11の過ちはすべて「利己主義」に集約されます。「利己的な既婚者」は「無神論者の司祭」と同じくらい矛盾した、危険な存在です。結婚生活では、自分の見え方や感じ方よりも、相手を優先する「二人(私たち)」の視点が必要です。ここで、相手の状態をただ測定するだけの「温度計」ではなく、環境を調整し補い合う「サーモスタット」になってください。相手が愛されるに値しないような振る舞いをしているときこそ、最も愛を必要としているときです。
これら12の習慣を克服する鍵は、「婚礼の霊性(エスポンサリダッ)」を育むことです。自分の意志の力だけでエゴを捨てることは不可能です。キリストと教会との婚礼(絆)の神秘が、私たちの結婚の土台です。教皇様が新しい司教を叙階した際、指輪をはめながら「その指輪の裏には、あなたの両親の結婚指輪(の精神)があることを忘れないでください」と言われました。独身者も司教も既婚者も、すべての召命はキリストとの深い絆、婚礼の神秘の中にあります。自分の力ではなく、神の恵みによって、エゴを克服し、これらの悪い習慣を断ち切る戦いに挑みましょう。
最後に12の過ちを繰り返します。1.常に批判する、2.すべてを分ける、3.育児中に結婚を後回しにする、4.残り物を与える、5.恨みを抱く、6.感情を約束より信じる、7.相談せずに決める、8.相手を変えようとする、9.出口戦略を練る、10.既婚者であることを隠す、11.ポルノグラフィ、12.利己主義。これらすべては、イエス様が私たちの人生の「花婿」であり、私たち一人ひとりと深い絆を結びに来られたという事実に集約されます。自分の召命という大きな贈り物に感謝しましょう。父と子と聖霊に栄光。
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