私たちの罪をおゆるしください、わたしたちも人をゆるします
「主の祈り」第5の願い:私たちの罪をおゆるしください、わたしたちも人をゆるします
「私たちの罪をおゆるしください、わたしたちも人をゆるします」。これは「主の祈り」に関する6回目の黙想であり、第5の願いにあたります。第1回目の黙想は願い事ではなく、「天におられる私たちの父よ」という最初の呼びかけについてでしたので、今日お話しするのは第5の願いとなります。
まず、特筆すべき点があります。主イエスご自身が、他の願いの中でも特にこの第5の願いを強調されたということです。マタイによる福音書の中で、イエスはこの祈りを「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪からお救いください」と結んだ直後に、こう続けられています。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
不思議なことに、第5の願いに対してだけ、後日談というか、結びの言葉のようなものを付け加えられています。私たちがスピーチをする際、いくつかの主張をした後で、最後にどれかを強調して繰り返すことがありますよね。それは、その部分が最も緊急で重要だと考えているからです。イエスも同じことをされたのだと思います。マタイによる福音書は、主の祈りの7つの願いを記述した後、最後にこの第5の願いを繰り返して念押ししています。イエスがこの箇所にいかに特別な重みを置いていたかが分かります。
この第5の願いには、2つの要素が組み合わされています。神への願い(「私たちの罪をおゆるしください」)と、他者との関係のリマインダー(「わたしたちも人をゆるします」)です。もし前半の神への願いだけであれば、それはすでに第1の願いである「御名が聖とされますように」に含まれていると言えるかもしれません。以前説明したように、「御名が聖とされる」とは神が聖くなることを願うのではなく、私たちが聖くされることを願うことだからです。当然、神に私たちを聖くしていただくよう願うことは、罪を赦していただくよう願うことでもあります。しかし、この第5の願いの特徴は、神への赦しの願いと、隣人を赦すという掟の実践がセットになっている点にあります。
順を追って見ていきましょう。まず、私たちが神に求める「慈しみ(ミゼリコルディア)」の祈りについてです。「私たちを赦し、慈しみをお与えください」と願うこと。このスペインの地(アリカンテなど)では「聖なる御顔(サンタ・ファス)」への信心があり、「聖なる御顔よ、慈しみを、慈しみを」と祈りますが、キリストの御顔に慈しみを乞うその叫びこそが、まさに主の祈りの第5の願いそのものなのです。「赦してください」と言うことは、神の慈しみの「物乞い」になるということなのです。
カトリック教会のカテキズムは、なぜ常に赦しを求め続けなければならないのか、なぜ執拗に慈しみを求めなければならないのか、という問いに対し、こう答えています。「洗礼の衣をまとっていても、私たちは罪を犯し、神から離れることをやめないからである」。これが現実です。聖くされても、また汚れてしまう。箴言には「正しい者は七度倒れても、また起き上がる」とあります。正しい者でさえそうなのです。私たちは、一度赦されたからもういいというのではなく、罪を犯し続けるからこそ、絶えず慈しみを求め続けなければなりません。
この願いを理解するための鍵は、自分が「罪人である」という自覚を持つことです。単に言葉で「私は罪人です」と言うのではなく、本当にそう信じることです。「私は人を殺したことも盗んだこともない、善人だ」という軽々しい言葉には注意が必要です。人類は「罪人と非罪人」に分かれるのではありません。「慈しみを求める罪人と、求めない罪人(あるいは自分が罪人である自覚がない者)」に分かれるのです。ヨハネの手紙一にはこうあります。「もし、罪を犯したことがないと言うなら、神を偽り者とすることになり、神の言葉はわたしたちの内にありません」。
また、自分が罪人だと思わない人は、盲目であるだけでなく、イエス・キリストの救いの業から自らを排除してしまっています。かつて私が主任司祭をしていた頃、堅信礼の準備をしていた若者が「僕は殺しも盗みもしていない。善人だよ」と言いました。私は少し皮肉を込めてこう言いました。「ああ、それは良かった。それなら君にはイエスの赦しも救いも必要ないね。イエスは君のために十字架で死んだわけじゃないし、君のために命を捧げたわけでもない。君には必要ないんだから」。それを聞いた彼は慌てて「いや、待ってください、少しは罪があるかもしれません」と言い直しました。自分が罪人ではないと主張することは、キリストの救いから自分を切り離すことだと気づいたのです。
自分が罪深い人間であるという自覚は極めて重要です。たとえ大きな罪を犯していなくても、神の慈しみが私たちを罪から守ってくださったのだと知るべきです。私たちは、赦されたからだけでなく、守られたからこそ「慈しみの子」なのです。聖母マリアを例に挙げましょう。罪のない無原罪の御宿りであるマリア様は、神の慈しみを求めたでしょうか? はい、求めておられました。神の慈しみこそが、彼女を罪から守ったからです。マニフィカト(聖母の賛歌)の中でも「その慈しみを忘れることなく」と歌われています。
さらに、私たちは「怠りの罪」を忘れがちです。神は私たちを聖生へと、つまり神に似た者になるよう招いておられます。私たちが聖なる生活を送っていないのであれば、それだけで赦しを乞う理由は十分あります。また、神への「恩知らず」という罪もあります。罪の重さは「何をしたか」だけでなく「誰に対してしたか」で決まります。神に対して恩知らずであったことは、私たちが想像する以上に重大なことです。
結局のところ、洗礼を受け、告白(ゆるしの秘跡)を受けた後も、私たちは罪を犯し続けます。ですから、私たちは放蕩息子のように「お父さん、私は天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました」と言い続けるのです。また、ルカ福音書の「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえにあるように、後ろの方に座って目を上げることさえできず、「神様、罪人の私を憐れんでください」と言った徴税人のようでなければなりません。
最悪な態度は、あのファリサイ派の人の態度です。「神よ、私はあの徴税人のようではないことを感謝します」と言う。これほど救いがたい態度はありません。彼は自分が罪人である自覚がないため、主の祈りを唱えることができなかったのです。また、放蕩息子の兄のような態度、つまり「娼婦に金を使い果たしたあんな息子が帰ってきたのに……」と言い、自分は一度も皿を割ったことがない(過ちを犯したことがない)かのような顔をすることも、最悪の態度の一つです。要するに、第5の願いを唱えるとき、まずは自分が罪人であるという鮮明な自覚を持つ恵みを願わなければなりません。
「教会は罪のことばかり言いすぎる」という批判を耳にすることがあります。しかし、それは教会の意図を誤解しています。慈しみを求めることは、同時にそれを受け取った喜びを感じることでもあるからです。悔い改めの祈り(痛悔)で流す涙は、罪を犯した悲しみの涙なのか、赦された喜びの涙なのか、自分でも分からなくなるほどです。赦しを乞い続けることは、決して悲観的な霊性ではありません。むしろ、赦しという贈り物を受け入れ続けることなのです。
さて、第2の点、条件についてです。「わたしたちも人をゆるします」。この条件をどう理解すればよいでしょうか。神が「お前が隣人を赦さないなら、私もお前を赦さないぞ」と報復するような意味でしょうか? それはあまりに文字通りすぎる解釈であり、正しくありません。イエスは私たちに「悪に悪を返してはならない。善をもって悪に勝て」と教えておられます。ですから、神が意地悪でそう言っているわけではありません。
カトリック教会のカテキズム(2840項)には、素晴らしい解説があります。
「恐ろしいのは、わたしたちを害した人々をわたしたちがゆるさないかぎり、この溢れんばかりの慈しみが、わたしたちの心に浸透することができないということです。愛はキリストの体のように分かつことができません。自分に見える兄弟姉妹を愛さないのであれば、見えない神を愛することはできません。兄弟姉妹を赦すことを拒むなら、心は閉じ、その硬さは、父の慈しみ深い愛を浸透させないほど、心を不浸透性のものにしてしまいます。」
これは興味深い説明です。「不浸透性の衣」を想像してください。隣人を赦さないという心の硬さが、自分の中に一種の防水加工のような「コーティング」を作ってしまうのです。それは自分の中から慈しみが出るのを妨げるだけでなく、外から神の慈しみが入ってくるのもブロックしてしまいます。神が赦したくないのではなく、あなたが自ら「立ち入り禁止」のバリアを張っているために、神の愛が届かないのです。
カテキズムが「地獄」を「神の救いから人間が自らを自発的に除外すること」と説明しているのと同じです(1033項)。神が「お前は気に入らないから地獄へ行け」と言うのではありません。人間が自ら拒絶するのです。この第5の願いにおいても同様で、隣人を赦さないという硬い心が、存在論的に神の赦しを受け取れない状態にしてしまうのです。だからこそ、イエスはこの願いをこれほどまでに強調されたのです。
赦しは「課題(タスク)」であると同時に、神からの「贈り物(ギフト)」でもあります。他者を赦そうと努力することは私たちの義務ですが、それは同時に神に願わなければならない恵みでもあります。神の赦しを模倣しようと決意することは意志の力が必要ですが、自分の力だけでは不可能です。
福音書の中で、この「……のように(como)」という言葉は、しばしば人間の力を超える要求とともに現れます。
「あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」
これらは単なる努力目標ではなく、聖霊の助けなしには不可能な「神の聖性への参加」を求めているのです。自力だけでやろうとするのは、滑稽なまでの意志至上主義に陥ってしまいます。聖霊だけが、キリストの心と同じ感情を私たちに与えることができるのです。
では、どうすれば私たちは人を赦すように自分を動機づけ、教育することができるでしょうか。4つのステップを提案します。
第1に、神が自分をどれほど赦してくださったかを頻繁に思い返すことです。「無慈悲な家来」のたとえ(マタイ18:23-35)を思い出してください。1万タラントン(天文学的な負債)を王に免除してもらった家来が、わずか100デナリの借金がある仲間を捕まえて首を絞める話です。1万タラントンは今日のお金に換算すれば、一生かかっても返せない永遠の負債の象徴です。神に対して私たちが負っている負債はそれほど大きいのです。もしあなたが、自分が神の赦しによってのみ生かされているという事実に気づけば、隣人を赦すことはずっと容易になるはずです。私たちが赦せないのは、自分がどれほど赦されたかを理解していないからです。
第2に、「意志」と「感情」は関係していますが、同一ではないと理解することです。「人を赦すとは、相手への嫌悪感が完全に消えることなのか?」という問いがあります。相手が目の前を通るだけで胃が痛む。それは赦していないということでしょうか?
カテキズム(2843項)にはこうあります。「受けた屈辱を感じなくなったり、それを忘れたりすることは、人間の力ではできません」。これは重要です。記憶や感受性は人それぞれです。敏感な人は忘れられないかもしれません。しかし、赦しとは「忘れること」ではなく「意志をもって決意すること」です。カテキズムは続けます。「聖霊に捧げられた心は、傷を『同情』に変え、記憶を浄化して、屈辱を『執り成し(他者のために祈ること)』へと変容させます」。
つまり、感じ方はコントロールできなくても、「私は赦したい」と願うこと、それがすでに赦しなのです。テロの被害者や虐待を受けた方々に寄り添う際、私はこう言います。「相手を憎むことで、これ以上その加害者の犠牲者にならないでください。相手の悪によって、あなた自身が悪くなってはいけません」。相手に怒りを感じる代わりに、相手の哀れな状態を「可哀想だ」と思い、その人の回心を神に願うこと。それができれば、たとえ感情が波立っていても、あなたは心の底から赦しているのです。
第3に、敵を愛するという理想を掲げることです。聖ヨハネ・クリゾストモは「この世で最も私たちを神に似た者にさせるのは、敵への愛と赦しである」と言いました。これは過激な思想に見えるかもしれませんが、私たちの永遠の命がかかっているのです。
ここで、一人の殉教者の証しを紹介します。スペイン内戦時代の司祭、ルイス・エスターニョ・メリャード神父です。1936年、彼は処刑される直前、執行人たちに「主の祈りを唱えるために1分だけ時間が欲しい」と言いました。彼は祈り始め、第5の願い「私たちの罪をおゆるしください、わたしたちも人をゆるします」に達したとき、祈りを止め、「さあ、撃ちなさい」と言いました。彼は小さな毛布で顔を覆い、そのまま撃たれました。その血に染まった毛布は今も保存されています。この証しは、第5の願いがいかに真剣なものであるかを物語っています。赦しとは遊びではないのです。私たちは神の前で「総特赦」を宣言する恵みを願うべきです。「私に負債がある人は誰もいない。全員を赦した」と言えるとき、人は本当に幸せになれます。古いカテキズムには「神の慈しみを望むなら、あなたの敵意を神にプレゼントしなさい」という言葉があります。それを神に手渡して、忘れてしまいなさい、という意味です。
第4に、自分の「感受性」を鍛えることです。私たちが赦しに苦労するのは、往々にして重大な事件ではなく、日常の些細な出来事においてです。自尊心が傷ついた、悪口を言われた、認められなかった……。現代のナルシシズム文化は「虚栄心」と「過敏な感受性」という糸で織られています。
成熟した赦しとは、単に起きたことを赦すだけでなく、「簡単に傷つかない」ことでもあります。自由な愛、所有しない愛を学ぶ必要があります。「尽くしたのに感謝されない」と嘆くのではなく、「私はなすべきことをした。それで十分だ。認められないのは相手の問題だ」と考える。もっと言えば、何かが起きる前から「すべてを赦した状態で生きる」のです。赦しを単発の行為ではなく、「生き方(ステート・オブ・ライフ)」にするのです。
神の「仕事」は赦すことです。神は慈しみの行為をするのではなく、慈しみそのものです。私たちも、単に赦す行為をするのではなく、赦しの中に身を置いて生きることで、神をこの地上に現す者となります。
これら4つのポイントを意識して、この第5の願いを生きていきましょう。最後に、キリストが教えてくださったあの祈りを、心を込めて共に唱えましょう。
(ここで一同起立し、主の祈りを唱え、祝福をもって終了する)
天におられる私たちの父よ、
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
御心が天に行われるように地にも行われますように。
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。
私たちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪からお救いください。
アーメン。