カテキズム2836-2837『今日、日ごとの糧をお与えください』(6)
カテキズム2836-2837「今日、日ごとの糧をお与えください」(6)
ラジオ・マリアのリスナーの皆さん、今日も主の恵みによって、母なる教会のカテキズム解説を続けていきましょう。今日は、主の祈りの第四の願い「今日、わたしたちに日ごとの糧をお与えください」の説明を締めくくる最後の回です。この箇所にいくつもの回を割いてきましたが、今日は結論に入ります。残っているのは2836番と2837番の二点です。
これまでの回では、とくに「お与えください(danos)」という動詞の意味、そして「この糧」をどう理解するかを丁寧に見てきました。ですが今日は、カテキズムが別の二つの表現を説明します。「今日」とは何か。「日ごとの」とは何か。なぜイエスは、この祈りの中でこの二つのニュアンスをわざわざ明示されたのか。「今日、わたしたちに日ごとの糧をお与えください」は、見方によっては重複や文学的な言い回しにも見えるかもしれません。しかし、もちろんそうではありません。主のことばは命のことばであり、主が語られるとき、それは美的・文学的な理由ではなく、いのちの真理を伝えるためです。その視点から、ここを深めていきましょう。
まず2836番。「今日」もまた、信頼の表現です。この「今日お与えください」は、信頼のことばです。これは主ご自身が教えてくださったのであって、わたしたちが作り出せるものではありません。そして、ここで問題になっているのは主のことばと御子の御体ですから、この「今日」はわたしたちの死すべき時間だけを指すのではなく、「神の今日」でもあるのです。この主張を解きほぐしていきましょう。
「なぜそれが信頼の表現になるのか」と思う方もいるでしょう。理解のために、聖書の二つの箇所が示されます。ひとつはマタイ6章です。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日が思い悩む。苦労はその日その日に十分ある。」文脈ではこうです。「何を食べよう、何を飲もう、何を着ようと、思い煩ってはならない。野のゆりを見なさい、空の鳥を見なさい。神が養っておられるではないか。なぜ衣服のことで心配するのか。野のゆりは働きも紡ぎもしないのに、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。神が野の草をこのように装ってくださるなら、ましてあなたがたにしてくださらないことがあろうか、信仰の薄い者たちよ。」だから結論は「明日のことまで思い悩むな」です。そういう意味でカテキズムは、「今日、日ごとの糧をお与えください」は子としての信頼の表現だ、と言うのです。わたしは日々、神に信頼します。
これをさらに理解するために、出エジプト記16章、荒れ野のマナの場面が示されます。荒れ野を歩く民が飢え、ヤハウェに助けを求め、ヤハウェがマナを与えた場面です。出エジプト記16章16節にはこうあります。「主が命じられたことはこうである。各自、食べる分だけ集めよ。家族の人数に応じ、一人当たり一オメル。各自、自分の天幕の者のために集めよ。」イスラエルの人々はそのとおりにしました。多く集めた者も少なく集めた者も、量ってみると、少ない者に不足はなく、各自が必要な分を集めていました。モーセは「だれも翌朝まで残してはならない」と言いました。しかし彼らは従わず、翌日まで取っておいた分は虫がわいて腐ってしまい、モーセは怒りました。彼らは毎朝、必要な分を集めました。マナはまさに「日ごとのパン」として与えられたのです。「今日は今日のためのマナを、明日は明日のためのマナを与える。」これは信頼の試みです。神は毎日あなたを見守り、毎日必要なものを与えてくださる。今日には今日、明日には明日です。
彼らにとってこれが難しかったのは、ヤハウェへの信頼が足りなかったからです。貪欲のために必要以上に取る者もいましたが、量ってみると結局は家族に必要な分でした。翌日のために取っておこうとした者もいましたが、だめになってしまいました。モーセは彼らを戒めましたが、信頼することは簡単ではなかったのです。
少し前、東欧、ロシアから子どもを養子に迎えたある父親の話を聞きました。子どもたちは養子になる前、虐待、路上生活、飢えなど非常につらい体験をしていました。いまは、深い愛をもって育てようとするすばらしい家庭にいます。それでも親御さんはこう言っていました。子どもたちは「本当に良い親がいる」「毎日善意が続く」と信じるのが難しく、夜になると翌日食べ物がないかもしれないと思って、パンのかけらを枕の下に隠していたのです。「今日は優しくても、明日は怒って食べさせてくれないかもしれない。」そう思ってしまう。わたしたちが神に信頼しづらいのも、形は違っても似ています。悪い体験が原因というより、自分の利己心のために、いつも“確実さ”を握ろうとするからです。荒れ野でマナを集めた人たちも心の中では、「明日、神がマナをくださらなかったらどうする。冷凍庫でも作って保存できないか」と思いたかったはずです。これが、保証を求めるわたしたちの傾向です。
信頼することと、保証を求めることは同じではありません。むしろ反対です。保証を求めるのは、神のうちに安心していないからです。保証を握りたくなるのは、神がわたしたちを愛し、世話してくださるという信頼の確かさが足りないからです。だから「今日、わたしたちに日ごとの糧をお与えください」ということばは、保証を求める傾向からわたしたちを清めようとします。「主よ、今日は“今日”のために願います。明日は、あなたが明日を与えてくださるなら、そのときに。そもそも明日が来るかどうかさえ分からないのに、なぜ明日のことで心をすり減らすのか。今日を生きなさい。愛をこめて濃く生きなさい。」
この番組でも何度も繰り返してきた「今日の霊性」があります。「主よ、過去はあなたのあわれみに委ねます。未来はあなたの摂理に委ねます。わたしは今この瞬間だけを、愛の強さをもって生きます。」これはとても大切な霊性です。もしこれを生きるほどの信頼が神に対してあれば、どれほど多くの苦しみを避けられることでしょう。苦しみの多くは、主観の中で、変えられない過去を変えようとしたり、まだ来ていない未来を恐れたりするところから生まれます。たとえば、誰かと難しい会話をする前に、「あの人がこう言ったらこう返そう」と頭の中で何度もやる。でも実際の会話は、こちらの想定と全然違うことがよくあります。「今日、日ごとの糧を」のこのニュアンスは、信頼に身を委ねるための本当に大きなレッスンです。今日のことは今日、明日のことは神に任せるのです。
きっと多くの方が、教皇ヨハネ23世の有名な「今日だけ」という祈りを思い出したでしょう。「今日だけ、人生の問題を一度に全部解決しようとせず、この一日を生きよう。今日だけ、身だしなみに気を配り、礼儀正しくし、だれも批判せず、だれかを矯正しようとせず、まず自分を整えよう。今日だけ、わたしは幸福のために造られたことを信じて喜ぼう。来世だけでなく、この世においても。今日だけ、状況を自分の望みに合わせるのではなく、自分を状況に合わせよう。今日だけ、十分だけ良い読書に充てよう。食べ物が体に必要なように、良い読書は魂に必要だと覚えて。今日だけ、善い行いを一つして、だれにも言わないでおこう。今日だけ、やりたくないことを少なくとも一つはやってみよう。感情が傷ついても、だれにも気づかれないよう努めよう。今日だけ、細かな計画を立てよう。全部は守れないかもしれないが書いてみよう。そして急ぎすぎと優柔不断という二つの災いを避けよう。今日だけ、状況が反対を示しても、神の善い摂理が、まるで世界でわたし一人のためのようにわたしを世話してくださると信じよう。今日だけ、恐れないでいよう。とくに、美しいものを喜び、善を信じることを恐れないでいよう。12時間なら善を行える。一生ずっとと思うとくじけることでも。」
これは驚くべき祈りです。あれほど多くの責任と課題を抱えた教皇の口から、「今日だけ」という答えが内なる祈りとして出てきたのです。というのも、誘惑者はしばしば「重圧」という形で襲ってくるからです。「自分には無理だと分からないのか。そんな力でどうやるのか。」誘惑者は、仮説を“今この瞬間”に持ち込みます。しかし神がくださる恵みは、いまこの瞬間のための恵みであって、まだ起きていない仮説のための恵みではありません。もし本当にそういうことが起これば、そのときに必要な恵みを神は与えてくださいます。だからそれに絡め取られず、今を生きる。これはキリスト教的霊性の重要な教えです。誘惑の一つは、時を間違えた恐れや課題を持ち込むことなのです。
子どもの頃の話を一つ。カテケージスで殉教者の話を聞いて強く心を打たれ、家に帰って「自分は耐えられるだろうか」と考え始めました。マッチを一本取り、指先に当ててみたら、ほんの一瞬も耐えられませんでした。わたしはアルバ神父(中国宣教をした聖なるイエズス会士)のところで告解し、「殉教者のようにイエスを愛していません。マッチさえ耐えられませんでした」と言いました。神父は内心では微笑んでいたかもしれませんが、忘れられない言葉をくれました。「殉教者ごっこをしてはいけない。神はその時々に、来るものに必要な力と恵みをくださる。今あなたに殉教の力がないのは、神が今それを求めておられないからだ。もしその日が来るなら、その時の力は必ず与えられる。」これはまさにヨハネ23世の「今日だけ」と同じです。明日は明日。今日は、愛と信頼をもってすべきことをしていく。神の恵みがわたしを支え、ともに歩んでくださると知りながら。
この「今日」は、信頼の試みです。わたしは信頼するのであって、保証を取りに行くのではありません。心では「主よ、10年分のパンを先にください、契約しましょう」と言いたくなるかもしれない。でも祈りは「今日だけ」です。そこから先は摂理への信頼です。来年与えてくださらない、という意味ではありません。「今日だけ」というのは、保証に寄りかからず、神の愛に寄りかかるという意味です。わたしたちの心は、契約よりも神ご自身の愛に支えられるべきです。わたしは契約ではなく、主がわたしを愛し、いま共にいてくださることに支えられます。
後半に戻ると、「今日」は信頼の表現であり、ここで語られるパンは主のことばと御子の御体です。だからこの「今日」は、わたしたちの地上的な一日だけではなく、神の「今日」でもあります。聖アンブロジオは言います。「日ごとのパンを受けるなら、あなたにとって毎日が“今日”である。キリストがあなたにとって今日であるなら、キリストはあなたのために毎日よみがえる。」
神との関係は、過去の蓄えだけで生きるものではありません。信仰とは「もう持っているから終わり」ではない。キリストが生きておられるなら、わたしたちの友情も生きていなければなりません。「今日、日ごとの糧をお与えください」と祈るとき、それはみことばと聖体のパンを指し、キリストを“今日”受け取ることを意味します。昨日受けた、幼いころ受けた、それだけでは足りない。信仰生活に“昔の貯金”だけで生きる道はありません。キリストが生きておられるなら、それは今日の出来事です。初聖体の子どもたちに、わたしはこう言います。「第一の聖体拝領と第二の聖体拝領、どちらが大事?」第二、その次、そのまた次です。あなたの両親が“今日”も「愛してる」と言い続けることのほうが、結婚式当日の一言だけより大事なのと同じです。聖体も同じです。「今日、昨日よりもっとあなたを愛し、明日よりは少なく。」キリストは今日生き、わたしと人格的な関係を結んでおられます。主の祈りは生きており、信仰はまさにこの瞬間に起こっている関係なのです。
次に2837番です。「今日、わたしたちに日ごとの糧をお与えください。」ここで「日ごとの」という語が、さらにこのニュアンスを強調します。ギリシア語は「エピウシオス(epiousios)」。新約聖書では、先ほどの「今日」と同じ内容を指す語として理解されます。時間的な意味では、無条件の信頼を確かなものにするための教育的反復です。この語には三つの意味があります。
第一は時間的意味。つまり「今日」と同じです。今に集中し、現在の瞬間を濃く生きる。過去の後悔や未来への恐れに心を散らさないこと。
第二は質的意味。生きるために必要なもの、根本的なものを指し、余計なものと対比されます。神に気まぐれやぜいたくを願うことはできません。必要なものと余分なものを見分けること。ほかの人が必要に苦しんでいるのに、自分は過剰の中で生きるのは罪です。神に気まぐれを願うのは祈りの冒涜です。若者が神にスポーツカーを願うなど、祈りを汚すことになります。「日ごとの」は、生存に必要なものという意味です。同時に、命のパンへの言及でもあります。人は神なしには生きられません。空気のように神を必要とします。根本的なものを願うとき、わたしたちは神のことばとキリストの御体を願っているのです。これはぜいたくではなく、生きるために不可欠です。イエスは言われました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まない者には、いのちがない。」
最後に第三は終末的意味。「今日、日ごとの糧をお与えください」は、“日々の中の日”、すなわち主が再臨され、神の栄光が現れ、永遠の時が始まるその日を指します。わたしたちの全生涯は、永遠のいのちへの備えである限りにおいて秩序づけられるべきです。わたしたちの第一の目標は天です。「日ごとの糧をお与えください」とは、神との大いなる出会いの日に向けてわたしを整えるすべてを願うことです。その出会いに役立たないものは余分であり、風に吹き飛ばされるわらのようなものです。聖体はその瞬間を先取りする秘跡です。そこにおいて、わたしたちはキリストご自身を受けます。それは、流浪のただ中で味わう天国のようなものです。
要するに、「エピウシオス」には三つの意味があります。時間的意味(今日を生きること)、質的意味(本質的なものを願うこと)、終末的意味(大いなる日への備えとなるもの)。聖アウグスティヌスは言います。「この神的な食物固有の力は、結び合わせる力である。それはわたしたちを救い主の体に結びつけ、わたしたちをその肢体とする。これらすべては、わたしたちの巡礼の旅に必要である。」教会の交わりは、イエス・キリストとの一致によってのみ成り立ちます。もしわたしたちが本当に良く聖体を受けるなら、隣人への愛の絆が生まれ、多くの問題は解決へ向かうでしょう。