主の祈り

カテキズム2832-2833「わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください」(3)

2026年3月18日

カテキズム2832-2833「日ごとの糧を今日もお与えください」(3)

ラジオ・マリアのすべてのリスナーの皆さんにごあいさつします。私たちの母である教会のカテキズムの解説を続けます。今回は「主の祈り」の第四の願い「日ごとの糧を今日もお与えください」の説明の中にある2832番です。こう書かれています。

「パン種が粉のかたまりをふくらませるように、神の国の新しさは、キリストの霊によって地上全体を発酵させなければならない。それは、個人的・社会的・経済的・国際的な関係の中に正義が打ち立てられることによって現れなければならない。しかも、正しくあろうとする人間がいなければ、正しい構造は存在しえないことを決して忘れてはならない。」

カテキズムは「粉の中のパン種」というイメージを使っています。福音書にはほかにも、世界を照らす「光」、味をつけ保存する「塩」といったたとえがありますが、パン種はおそらく最も決定的です。というのも、パン種はただ見えるようにしたり味を加えたりするだけでなく、内側から深く変えていくからです。私たちが願い求める「パン」が何かを説明するために選ばれているのはこのイメージです。それは物質的な糧だけではなく、私たちの行うすべてが天の国の一部となるように、私たち自身が発酵の種となる恵みでもあります。

私たちはしばしば「パン」を、肉体的あるいは霊的な食べ物としてだけ考えます。しかし同時に、世界を変える恵みも願い求めています。つまり、神は私たちに「魚」だけでなく「釣り竿」も与えてくださるのです。給料だけを待ちながら気乗りしない仕事をするのと、自分の働きが神の国の到来を早めるのだという自覚をもって働くのとでは、同じではありません。召命の意識をもって働き、与えられた賜物を伸ばし、卓越を目指すとき、私たちの努力は神がくださるそのパンの一部になります。仕事と召命は同義語であるべきなのです。

「あなたは司祭だからそう言える。でも私は自分で選んだ仕事ではない」と反論する人がいるかもしれません。気持ちはよく分かります。けれど、あなたの人生のこの時点で、その道は神があなたの前に置かれたものです。自分の期待に合うものを探すことが中心なのではなく、神に導かれることが中心です。召命とは、私たちが設計した人生をあとからキリストに「共有してもらう」ことではなく、神ご自身が私たちと分かち合ってくださるいのちです。私たちは、仕事における召命を生き、世界を変えていく恵みを願い求めます。

カテキズムは第二バチカン公会議の教令『使徒職活動(Apostolicam Actuositatem)』を示しています。「キリストのあがないの業は……時間的秩序全体の回復をも目指している」。あがないには、世界をより正しいものにしていくことが含まれます。教会の使命はメッセージを語ることだけではなく、福音の精神をこの世の秩序にしみ込ませることです。信徒は、信者であると同時に市民でもあり、その両方の領域でキリスト者としての良心に導かれなければなりません。信徒の使徒職は勤務時間の外にある何かではなく、まさに工場やオフィスや大学へキリストのパン種を運ぶことです。信徒に固有なのは、世界の生活のただ中へキリストを運ぶこと。司祭に固有なのは司祭職務です。教会の中心的な場所が聖具室だと考えるなら、私たちはパン種になれていません。神が私たちを植えてくださった場所で花を咲かせなければならないのです。

2832番は、人間関係の中に正義を打ち立てることを強調しています。神の国は構造の変化を求めますが、心の変化がなければそれは不可能です。そうでなければ表面的な変化に終わります。公的な良心と私的な良心という、二つの良心があるわけではありません。内面の生き方と社会的責任を切り離す分裂は、福音と一致しません。人格の変化を伴わない構造改革も受け入れず、社会的な実りを伴わない個人的聖性にもとどまらないこと。1888番が言うとおりです。「社会は、諸団体と各人が自分に当然与えられるべきものを得られる条件を実現するとき、社会的正義を保障する」。

続いて2833番です。

「これは『わたしたちのパン』であり、一つのパンが多くの人のためにある。真福八端の貧しさは、財の分かち合いを伴う。それは、物質的・霊的な財を、強制によってではなく愛によって伝え分かち合うよう招く。ある人々の豊かさが、ほかの人々の必要を満たすためである。」

私たちは「わたしたちの」と言い、しかも「パン」(複数ではなく単数)と言います。ここには深い象徴があります。一つが多くの人のためにあるということです。「配ること」と「分かち合うこと」には本質的な違いがあります。分かち合うとは、愛のために自分のものを手放すことです。そこには、神に導かれているという自覚をもつ、真福八端の内的な離脱の精神が必要です。聖パウロがコリントの信徒への手紙二で語るように、回心は財布にまで触れないかぎり不完全です。求められているのは、ただ何かを与えることだけでなく、自分自身を与えることです。

私たちの助けになる標語があります。「私が稼いだものは、本当は私のものではない。私が持っているものは、やがて失う。私が本当に持っているのは、私が与えたものだけだ。」この真実を本気で自覚するなら、私たちは人生の計画をまったく違う形で立てるはずです。ヨハネ・パウロ二世が示した生き方の態度――順応主義、不参加、反対のための反対、そして連帯――のうち、私たちの道は連帯です。「日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るとき、私たちはその連帯の精神をキリストに願い求めています。それなしには社会は衰えていくのです。