カテキズム2828–2829「わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください」(1)
「今日の糧をお与えください」——『天におられる父よ』の願いをめぐる考察(カテキズム2828–2829)
ラジオ・マリアをお聴きの皆さん、こんにちは。主の恵みによって、今日も私たちは母なる教会のカテキズム解説を続けます。今日は主の祈りの新しい願いに入っていきます。
主の祈りには七つの願いがあります。すでに最初の三つは説明しました。この三つは、いわば「願いのため息」のような特徴を持っています。「み名が聖とされますように」「み国が来ますように」「みこころが行われますように」。これらは、神ご自身を直接の対象とする願いです。
そして次の四つ、最後の四つの願いは、神に具体的な賜物を求める内容へと降りてきます。つまり「あなたの名」「あなたの国」「あなたの御心」という神そのものを願う祈りから、イエスが私たちに教えてくださった、キリスト者の生活に不可欠な具体的な恵みを願う祈りへと移るのです。
それが2828番から始まります。「今日、私たちに日ごとの糧をお与えください」。まずはこの「お与えください(ダノス)」という表現、つまりこの動詞が含んでいる意味に注目したいと思います。これは命令形での願いです。
カテキズムはこう言います。「『お与えください』——父からすべてを待ち望む子どもたちの信頼は美しい。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせ、すべての生き物に時にかなって食べ物を与える。イエスはこの願いを教えてくださる。それによって私たちは、父があらゆる善を超えて善い方であることを認め、父をたたえるのである。」
私たちが神に向かって、あまりにも素朴に、まっすぐに、「お与えください」「ください」と言えることが、どれほど大きなことか。ここで大切なのは単数か複数かではありません。こう言う勇気、こう言える信頼を持つことです。主の祈りで「私たちはあえて申し上げます」と言いますが、本当に「あえて」なのです。父と呼ぶだけでも大胆なのに、さらに「与えてください」と言う。頼んでいるのか、命じているのか、とさえ思えるほどです。願いでありながら、非常に大きな大胆さを伴っています。
このことを理解するために、カテキズムは2778番に触れます。そこでは「パレーシア(率直で大胆な信頼)」という言葉が語られています。以前にも触れましたね。キリスト教固有のこの言葉は、「回り道のない単純さ」「子としての意識」「喜びに満ちた確信」「へりくだった大胆さ」「愛されているという確信」を意味します。
だからこそ、「使徒たちはパレーシアをもって宣教した」と言われます。ものすごい大胆さです。それは「主が求めておられることだ」という意識から来るのであって、自分勝手ではありません。神から遣わされているという意識があるとき、人は恐れを越えて進むことができる。これがパレーシア、へりくだった信頼です。
まさに同じことが、ここにも当てはまります。「今日、私たちに日ごとの糧をお与えください」と神に言う、その信頼です。この「お与えください」には、先ほどのパレーシアのすべてが含まれています。回り道のない単純さ、子としての意識、喜びに満ちた確信、へりくだった大胆さ、そして愛されているという確信。
とくに最後の二つに目が向きます。愛されている確信がなければ、こんなふうには神の前に出られません。これは、子どもが台所に行って母親に朝食を頼む姿に似ています。子どもは「朝ごはんはある」と知っている。食事が備えられていると確信している。母だから、父だからです。同じ確かさ、子としての確かさ、愛されている確かさがあるからこそ、完全な信頼、へりくだった大胆さが生まれます。
外から見れば、「なんて図々しいんだ」と思う人もいるかもしれません。「神に向かってそんな言い方をするなんて」と。しかし当人同士の関係を知らない人には、そう見えるだけです。カテキズムが「私たちはあえて申し上げます」と言うのは、この点に気づかせるためです。私たちは神と語っている。そして、許されているだけでなく、イエスご自身がこの語り方を教えてくださった。パレーシア、信頼と大胆さをもって神に語るようにと。これは本当に私たちの心を打つことです。神は裏切らない、神はそこにおられるという確信を前提にしています。
こんな証しを思い出します。ある父親が語ってくれた話です。自分には信仰の迷いや神への不信もある、と。その彼が、日曜の午後、3歳の息子と居間で遊んでいました。父は床のカーペットに横になっている。息子は、嬉しくて、少し高いところから自分を投げ出す遊びをしたがる。父は少し離れているのに、子どもは、飛び出した瞬間に父が腕を伸ばして受け止めると確信している。腕がまだ出ていなくても、父が必ず受け止めると知っているのです。父は言いました。「この子は、私が腕を出すとわかっているから、空中に飛び込めるんだ」。私たちも同じ信頼を天の父に向けるよう招かれています。無条件に愛してくださる父への信頼です。だからこそ「お与えください」と祈るのです。
しかもこの「お与えください」は、「くださらないかもしれない」と疑いながら言う言葉ではありません。むしろ台所に行って自然に頼む子のような確信です。ここでまず大切なのは、何を求めるか以上に、こういう仕方で願えることそのものです。この信頼の度合いこそ、私たちを揺さぶるべき点です。
カテキズムは続けます。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせる」(マタイ5・45)。また「すべての生き物に時にかなって食べ物を与える」(詩編104・27)。この言葉は、この願いの意味をさらに深く示します。
よく考えてみてください。神は、求めた人にだけ与え、求めない人には与えない、という方ではありません。悪人にも善人にも太陽を昇らせ、求める人にも求めない人にも食べ物を与える。では、なぜ私たちは願うのでしょうか。これこそ神秘です。
もちろんこの点はさらに丁寧に説明できますが、ここで大事なのはこうです。私たちが願うのは、神がすでに与えてくださっていることに気づくためです。神は無条件に善い方。神は善悪の成績によって愛するのではなく、「存在している」その人を愛されます。功績がある前から愛されている。神は、私たちが何をしたか以前に、私たちを愛される。愛は無条件です。
それでもなおイエスが「願いなさい」と教えるのは、へりくだりの学校だからです。もう一度、親子関係のたとえで考えてみましょう。台所に行けば母が食事を用意してくれている、その確信は素晴らしいことです。でも同時に、それを当然の権利のように受け取り、無償の愛だと気づかず、「お願いします」「ありがとう」「ごめんなさい」を言わなくなる危険もあります。
親が私を見捨てないと確信すること自体は良い。けれども、その賜物を、愛への感謝なしに、鈍感さの中で受け取り続けることもできてしまう。贈り物だけ受け取り、その背後にある愛を受け取らない。家庭の中でも利己的な関係が起こり得るように、神との関係でも同じことが起こり得ます。
神は今日の夜明けをあなたに与えてくださった。太陽はあなたのために昇るのに、私たちはそれに気づかない。そして「どうせある」と思って、感謝もしないし願いもしない。実は、感謝するためにも願うことが必要なのです。願うことは、賜物に気づかせ、その後に感謝へ導く。願ったことのない人が感謝するのは難しい。
だからこそ、主が善人にも悪人にも、正しい人にも正しくない人にも太陽を昇らせ、無条件に賜物を与えておられるとしても、なお「願いなさい」と言われるのです。願いは人をへりくだらせます。もちろん利己的に願うこともあります。しかし願いそのものは、本質的にへりくだりの条件です。へりくだる人は「自分のものではない」と知っているから願う。子どもの頃に教えられましたよね。「何て言うの?」「お願いします」。それは「自分の当然の所有ではない」と知るためです。すべて自分のものだと思う人は願いません。荒っぽく入り込むだけです。自分のものではないと知る人は「お願いします」と言えるのです。
私たちの大きな貧しさは、物を受け取りながら、その背後の愛に気づかないことです。こんな例が分かりやすいでしょう。ある日、花の配達員が家のベルを鳴らし、美しい花束を届けてくれた。驚き、嬉しくなり、配達員に心づけを渡して、居間の花瓶に飾る。部屋はとても華やかになる。
そこへ来客が来て言います。「きれいな花だね。誰にもらったの?」答える。「さあ、わからない。カードがあったかもしれないけど、捨てちゃった。花は花瓶に飾ったよ」。すると相手は言うでしょう。「えっ、いちばん大事なのは、誰が、どんな思いで送ったかじゃないの?」
この単純な例は、神との関係で私たちに起きることをよく表しています。私たちは神の物質的な恵みだけ受け取りがちです。でも本当に大切なのは花束そのものではなく、カードです。つまり「誰が送ったのか」。そこに愛があるからです。誰かがあなたを愛しているのに、それに気づいていない——そんなことが起こり得る。でも実際、私たちは愛されているのです。
だからこの出発点の利己心、この大きな無自覚を癒すために、イエスは「願いなさい」と教えられます。願うことで、「私は愛されている」と気づくためです。「あなたを愛しているよ。日々あなたを包んでいるものは、神があなたを愛しているしるしだ」と。だから願いなさい。願うことで、それが当然の取り分ではなく、愛からの贈り物だとわかるためです。これが「お与えください」に隠された教育です。
2828番のこの最初の言葉、命令形での「お与えください」は、まさにそこへ私たちを導きます。
さらに言えば、この「お与えください」は、私たちが毎日神の贈り物に囲まれていることに気づかせます。私たちは日常的に、気づかないほど深い愛の対象にされています。別の言い方をすれば、「お与えください」には教育があります。それは、私たちが「自然なこと」と思っているものの背後に、超自然の賜物があると気づくことです。
私たちはよく、自然的秩序と超自然的秩序を区別します。確かにその区別はあり、神学的にも大切です。混同すれば問題が起こることもあります。ただし、両者は別々の階のように断絶しているのではありません。まったく違います。
キリスト者として生きるとは、超自然の賜物を、まるで自分にとって自然であるかのような親しさの中で生きることです。例えば祈りの生活、神との関係は本来超自然ですが、それを人生に深く織り込んで自然に生きる。また逆に、自然な営みを超自然的に生きることでもあります。夜眠ること、朝を迎えて日々の務めをすること、食べること、呼吸すること、健康も病も——それらすべての中で、永遠の救いに向かう出来事が進んでいる。神から受けた賜物が働いているのです。
ですから、言葉遊びのようですが、キリスト者として生きるとは「超自然を自然に生きること」であり、「自然を超自然化して生きること」です。だからこそ「お与えください」は、私たちが自然だと思っている多くのことにも、最終的な源として神がおられると気づかせるのです。
詩編120編を思い出してください。神がイスラエルの守り手として歌われる詩です。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは、天地を造られた主から来る」。目を上げることが大切です。
想像してみてください。あなたは豊かな谷にいて、野菜も花も実りもある。そこを味わうのはよいことです。でも目を上げなさい。その肥沃さは、山から流れる水による。山の雪解けがあるから谷は実る。だから「山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか」。
私たちは、目を上げずに生きてしまうことがある。目隠しをされた荷役のロバのように、数メートル先しか見ないようにされる。ロバに目隠しをするのは驚かせないためですが、私たちの場合、その目隠しは社会や文化、あるいは自分自身がつけることがあります。消費主義の文化です。「消費して、黙っていろ」。目隠しをして、向こう側を見ない。こんな恵みはどこから来るのか、と問わない。
「消費して、黙っていろ。人生の意味など問うな」。もし意味を考え始めたら、テレビをつけて気を紛らわせろ——そんな空気です。この超越を忘れた思想に対して、「今日の糧をお与えください」は詩編120編への招きです。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせない。あなたを守る方はまどろまない。見よ、イスラエルを守る方は、まどろむことも眠ることもない。主はあなたを守る方。主はあなたの右に立つ陰。昼も太陽はあなたを撃たず、夜も月はあなたを撃たない。主はすべての災いからあなたを守り、あなたの魂を守られる。主は今よりとこしえに、あなたの出るのも入るのも守られる。」
本当に圧倒される詩です。この主の祈りの願いが何を含んでいるかを、精密に教えてくれます。私たちには守り手がおられる。守護天使も、その父なる摂理のしるしです。神は一人ひとりを配慮して守っておられる。天使について私たちはあまり語りませんが、天使の存在はカトリック信仰の一部であり、教義に属する真理です。ほとんど語られないという事実自体、自然の賜物と超自然の賜物が深く結びついているという意識の弱さを示しているのかもしれません。天使も日ごとの糧も、どちらも神の愛のしるしです。
では、この最初の願いをまとめます。「お与えください」は教育的意図をもって語られています。私たちが日々自然に受け取っているものの中で、自分が神の愛の対象であると気づくためです。自然の背後には、神の超自然の愛が隠れています。
さらに「お与えください」の説明を補う箇所があります。「今日、私たちに日ごとの糧をお与えください」——これは契約の表現です。私たちは神のものであり、神は私たちのためにいてくださる。ただしこの「私たち」は、神をすべての人の父として認め、すべての人の必要と苦しみに連帯して願う「私たち」でもあります。
短い文の中に二つの重要な主張があります。第一に「お与えください」という大胆さは、神との契約から来るということ。もし神が私たちと契約を結んでおられなければ、父と呼ぶだけでなく、この信頼で願うことなどできません。ここで言う契約はシナイ契約だけではなく、中心はキリストにおける新しい契約です。「あなたがたは私の民、私はあなたがたの神となる」。最後の晩餐の後のイエスの祈りも同じです。「この人々はあなたが私に与えてくださった者、彼らは私のもの」。また「エルサレム、エルサレム、雌鶏がひなを翼の下に集めるように、私は何度あなたを集めようとしたことか」。神の望みは、私たちを子とすること。私たちが神のものであるだけでなく、神もまた私たちの神でいてくださることです。
もちろん「神は私たちのものだ」という表現には危うさもあります。神を私有物にする危険、神を操作する危険です。それは自覚しておくべきです。しかし危険があるからといって真理まで消えるわけではありません。深い愛の関係では「私の子」「私の父」「私の夫」「私の妻」と言います。所有の意味ではなく、愛の絆の表現です。同じように「私の神」と言うこともできます。無条件の愛が、そう言えるほどの親密さを与えてくださったからです。
契約はこう保証します。「あなたが私を忘れても、私はあなたを忘れない」。愛の契約です。神は失敗なさらない。キリストにおける契約に刻まれているのは、「たとえあなたが不実でも、神は常に真実であり続ける」ということ。だから私たちは言えるのです。「私たちは神のものであり、神は私たちの神である」と。
ここに「お与えください」という大胆さのもう一つの根拠があります。まるで「身内」のような祈り方です。神と私たちの間に、こういう約束があるかのようです。「あなたは私のことに心を向けなさい。私はあなたのことを引き受けよう。あなたは私を愛し、忠実であり、人に仕えなさい。私はあなたの日ごとの糧、太陽、命の賜物を与えよう」。
「自分のことばかり心配するな。賜物の作者が自分だと思うな。それは私に任せなさい。あなたは、私が託したこと——兄弟を愛し、仕え、罪と利己心を越えること——に取り組みなさい」。これが愛の契約です。そしてこの契約を思い起こす行為が「今日の糧をお与えください」という祈りでもあります。主よ、あなたは私がこれを願うよう望まれました。あなたと私の間に結ばれた愛の契約を思い出すために。
第二に、カテキズムはこう言います。「この『私たち』は、すべての人の父として神を認め、彼らの必要と苦しみに連帯して願う」。ここがとても美しい。祈りは「私に」ではなく「私たちに」です。「神は私の神だ」という親密さは、他者忘却の所有意識ではありません。私のために願うとき、私は兄弟姉妹のためにも願う。キリストを知らない人、信仰の賜物をまだ受けていない人のためにも願うのです。
カテキズム1939番にも参照があります。人間的・キリスト教的連帯について語る箇所です。「連帯の原理(社会的友愛・社会的愛とも呼ばれる)は、人間的かつキリスト教的兄弟愛から直接に要請される。広く行き渡る誤りは、この連帯と愛の法を忘れることである。この法は、すべての人が同じ起源と同じ理性的本性の尊厳を共有すること、さらにキリストの贖いの犠牲がすべての人に差し出されたことによって、命じられ支えられている。」
つまり私の連帯は、キリストの契約における兄弟愛からも来るし、たとえ信仰をまだ受けていない人に対しても、同じ理性的本性の尊厳を共有していることから来ます。「私たちに」と祈るとき、キリスト者だけのために祈るのではありません。キリスト者でない人のためにも祈るのです。
「ムスリムのためにも?」はい。「ユダヤ人のためにも?」はい。「無神論者のためにも?」はい。もちろんです。「私たちに日ごとの糧をお与えください」には、彼らも含まれます。誰一人この願いから除外しません。なぜなら、先ほどの言葉のとおり、私たちは共通の起源と、神の似姿としての人間の尊厳を分かち合っているからです。
この人間であるという絆は、私たちが思うよりずっと深い。たとえば海外で、遠く離れた場所、例えばオーストラリアに行って、偶然スペイン語を話す人に出会う。「同郷かな?」「え、隣町の人だった!」となると急に親しみが湧きますよね。驚いて、一緒に歩き、飲み物を飲んだりする。そのつながり自体は悪くない。
でもよく考えれば、その絆は、人間であることを分かち合う絆に比べたら小さいものです。同じ神の似姿としての尊厳を共有していることのほうが、はるかに本質的です。にもかかわらず私たちは、ときに「同じチームのサポーターだから」「同じ政党カラーだから」といった、きわめて表層的なものを基準に絆を作ってしまう。本当の絆は、人間としての共通の尊厳です。そこにこそ兄弟愛の根拠があります。
だから私たちが主の祈りを唱えるとき、それは人類全体と結ばれて祈る祈りです。神が私に託された全人類への共同責任を思いながら祈る祈りです。あの有名な言葉がありますね。私たちが神に「父よ」と言うたびに、神は私たちに「あなたの兄弟はどこにいるのか」と問いかける。そこには即座に、他者への責任が伴います。
ですからもう一度読みます。「この『私たち』は、神をすべての人の父として認め、すべての人の必要と苦しみに連帯して願う」。
以上、この最初の言葉「お与えください」の説明をしてきました。明日から、神がゆるされるなら続きを見ていきましょう。今日は、イエスが教えてくださったこの祈りにおいて、私たちがどれほどの信頼で、子としての大胆さで、愛されている確信をもって神に向かうのか、その意味を確認しました。だからこそ私たちは、命令形とも言えるあの言葉で祈るのです——「今日、私たちに日ごとの糧をお与えください」。