第四戒:「父と母を敬いなさい」――家族のきずなと幸せへの道
第四戒:「父と母を敬いなさい」――家族のきずなと幸せへの道
第四の戒め「父と母を敬いなさい」について考えていきます。まず、新約聖書の聖パウロの言葉から始めましょう。エフェソの信徒への手紙 6章1〜4節には、キリスト教の道徳が親子関係について何を求めているかが、とてもよく要約されています。
「子どもたち、主に結ばれている者として、両親に従いなさい。それが正しいことだからである。『父と母を敬いなさい』――これは約束を伴う最初の掟です――『そうすれば、あなたは幸せになり、地上で長く生きることができる。』父親たちよ、子どもを怒らせてはなりません。主が望まれるように、しつけと諭しによって育てなさい。」
聖パウロはここで多くのことを要約しつつ、申命記の言葉「父と母を敬いなさい」を引用しています。
「敬う」とはどういうことか
「敬う」とは何でしょうか。「敬う」は「名誉(オノール)」という言葉から来ていますが、ここで言う名誉とは、何か外見的な礼儀作法のことではありません。「敬う」とは、現実の「重さ」「価値」「確かさ」を認めることを指します。「この事柄には名誉がある」というのは、「これは重みがあり、真実味と価値がある」という意味なのです。
私たちは時々、「敬意」や「名誉」という言葉を、単なる形式を守ることだと勘違いしてしまいます。しかし、ここで言われている「敬う」とは、単に型どおりに振る舞うことではなく、「いのちの真理を認め、それにふさわしい価値を与えること」です。真理を認め、その重さを受け止め、それを大切にする――それが「敬う」ということです。
例えば、「神を敬う」とは、神の現実を認め、その存在に気づき、その方にふさわしい場所を自分の人生の中でお与えすることです。
同じように、「父と母を敬う」とは、両親の重要さを認めることです。それは、具体的には尊敬、愛、信頼、権威の認識、従順、そして喜んで仕える心となって表れます。これらすべてが、「敬う」という言葉の中に含まれています。
第四戒だけに付けられた「約束」
教皇フランシスコは「十の言葉(十戒)」についての要理講話の中で、この第四戒をたびたび取り上げています。十戒の中で、この戒めだけが、「それを守ったときの結果」をはっきりと約束していることは注目に値します。
申命記ではこう言われています。「父と母を敬いなさい。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすれば、あなたのいのちは長く続き、あなたは、あなたの神、主が与えられる土地で幸せになる。」
十戒の中で「幸せ」という言葉がはっきり出てくるのは、この第四戒においてだけです。しかもそれは「親子の関係」と結びつけられています。「父と母を敬うことが、あなたを幸せにする」と聖書は語っているのです。
カテキズムが語る第四戒と「幸せ」
カトリック教会のカテキズム2200番には、次のように書かれています。
「この掟を守ることは、霊的な実りだけでなく、平和と繁栄という地上的な実りももたらす。逆に、この掟に従わないことは、人間社会と個人に大きな害をもたらす。」
現代の私たちは、家族の土台が揺らいだときに、どれほど深刻な結果を招くかを、多くのデータを通してよく知るようになりました。家庭が崩壊している場合、あるいは父親や母親の存在そのものが欠けている場合、子どもたちは非常に大きなダメージを受けます。
例えば、学力不振の問題を考えてみましょう。学校での失敗の背景には、家庭の中に「安定した親子関係」がないことが、大きな原因として存在する場合が少なくありません。家に帰っても、安心してよりどころにできる家庭がないとき、子どもは心の中で深く揺らぎ、その結果として学習にも集中できなくなってしまうからです。
また、精神的な健康の面でも、家庭の有無は決定的です。ある統計では、親のいない児童養護施設などで育てられる子どもたちは、家庭で育つ子どもたちに比べて、自殺や自傷行為のリスクが7〜8倍にもなる、という結果が出ています。それほどまでに、「家族の不在」は、人の心に深い影響を及ぼします。
刑務所に行って、受刑者たちに「あなたには、子どものころからきちんとした父親または母親の存在がありましたか」とアンケートを取れば、多くの人が「父親の不在」「母親との断絶」という経験を持っていることが分かるでしょう。第四戒が示すような、健全な親子関係が育たないことの結果は、単に「神の前で不忠実だ」ということだけでなく、実際の人生の幸せ、人格の成熟そのものに、深刻な影響を及ぼします。
国家よりも先に「家族」がある
今日、「福祉国家」や「社会保障」が多く語られますが、忘れてはならないことがあります。子どもや高齢者に対して、最も根本的なケアを与えているのは「国家」ではなく、「家族」です。本当に人を守っているのは、制度ではなく、具体的な家庭の絆なのです。最高の社会保障は、安定した家族だと言ってもよいでしょう。
チェスタートンは皮肉を込めて、「家族こそが、最初にして最高の保健省であり、教育省であり、内務省であり、福祉省である」と語りました。国家は家族を完全に代替することはできません。家族の役割を完全に置き換えることは、不可能なのです。
社会学もまた、安定した結婚と家族が、道徳的・霊的な面だけではなく、健康や経済、社会的安定においても大きな貢献をしていることを証明してきました。つまり、3300年前に申命記が語った「父と母を敬えば、長生きし、幸せになる」という約束は、今の科学的知見から見ても、真実であったことが分かるのです。
幼少期の傷と現代の個人主義
現代心理学は、幼少期の経験が、その人の一生にどれほど深く影響するかを明らかにしてきました。子ども時代についた傷、特に家庭での親子関係の断絶や、夫婦の破綻などは、人格の正常な発達に大きな影を落とします。本来なら、子どもが成長し、自立して家を出ていくのが自然ですが、今の社会では、しばしば逆に「親が家庭を去ってしまう」ことが起きています。これは子どもにとって、極めて大きな悲劇です。
さらに私たちは、「個人主義」が理想のように語られる文化の中を生きています。「自分のことは自分で」「自分らしく生きることがすべて」というメッセージが強調される一方で、「家族」「共同体」「つながり」の価値は、ますます弱まっているように見えます。こうした極端な個人主義は、家族の価値や社会的なきずなをさらに弱め、結果として人を孤独にし、共同体の土台を貧しくしてしまいます。
キリスト者の目から見れば、この文化の中でこそ守りたい価値が「交わり(コミュニオン)」です。交わりとは、「家族に属する力」「誰かを愛し、長続きする絆を結ぶ力」のことです。私たちは、人間の充実は「自分のためだけに生きること」ではなく、「自分を与え、神と隣人との交わりを生きること」によってこそ実現すると信じています。
現代文化は、人間の「自律」「自立」を最高の価値のように掲げますが、私たちは、「自律」は「交わり」のためにこそ与えられている、と考えます。自分の自由と主体性は、「誰とも交わらずに生きるため」にあるのではなく、「より深い愛と絆のため」にあるのです。どちらか一方を選ぶのではなく、「自律と交わりのどちらがどちらのためにあるのか」を見極める必要があります。信仰の観点から言えば、人の自律は、交わりのために秩序づけられているのであって、その逆ではありません。
理想的でない現実の中で第四戒を生きる
とはいえ、私たちが第四戒を生きようとするとき、出発点はいつも「理想的な家族」ではなく、「さまざまな問題を抱えた現実の家族」です。すべてがうまくいっている、理想的な家庭は、実際にはほとんど存在しません。この地上で生きる限り、どの家庭にも、ある程度の「揺れ」や「嵐」があるものです。
家族について語るとき、しばしば二つの観点が挙げられます。一つは、「客観的な価値や理想を、家庭の中でちゃんと伝えているかどうか」。もう一つは、「家族内で生じる緊張や対立を、どのように扱っているか」です。この二つ――価値を伝えることと、緊張をうまく扱うこと――の組み合わせ方によって、四つの家族のタイプを考えることができます。
1. バランスの取れた家庭
第一は、「バランスの取れた家庭」です。ここでは、親は子どもに、はっきりとした価値観や生きる指針を示しつつ、家族の中で起きる緊張や対立もうまく扱うことができています。権限としての「親の権威」と、人格的な「道徳的権威」が両立している家庭です。
このタイプの家庭では、親はただ「ここでは私が親なんだから、言うことを聞きなさい」と力だけを振りかざすのではなく、自らの生き方を通して、子どもからの信頼と尊敬を得ています。子どもたちは反抗期や怠け心を持ちながらも、「親が自分たちを愛している」ということを、深いところで理解しており、「親の権威」と「親の忍耐」が、ある程度のバランスの中で共存しています。
2. 抑圧的な家庭
第二は、「抑圧的な家庭」です。ここでは、客観的な価値やルールは確かに存在し、親はそれを強く求めますが、家族の中で生じる緊張や葛藤を、健全な形で扱うことができません。結果として、「威圧的な権威」「一方的な命令」が前面に出てしまい、子どもは「従わされている」けれども、心の底からは納得していない、という状態になります。
このような家庭は、特に昔の時代にはよく見られたかもしれません。そこでは、一見すると「しっかりとしたしつけ」が行われているように見えても、実際には、子どもの心に深い傷が残っていることがあります。親自身が、絶えず自分も変わり続けなければならない「回心の道」を歩む代わりに、「自分は正しい側」「権威を持つ側」として、上から押さえつけてしまう危険があるからです。
こうした抑圧的な家庭では、表面上は「正しい教育」が行われているように見えても、内側では、怒りや反発が蓄積されます。その結果、後になって強烈な「反動」が起き、権威そのものへの不信や拒絶が、次の世代に広がっていくことも少なくありません。
3. 放任的・許しすぎる家庭
第三は、「放任的(許しすぎる)家庭」です。ここでは、「とにかく家の中を平和に保ちたい」「もめごとは避けたい」という思いから、「子どもに明確な価値や理想を示すこと」そのものを手放してしまいます。いわば、「波風を立てないためなら、何でも許してしまう」という態度です。
このタイプの家庭では、「とりあえず皆が仲良くしていればいい」「子どもに嫌われなければそれでいい」という低い目標に落ち着いてしまう傾向があります。親が、はっきりとした理想や基準を子どもに示さないとき、実は親自身も、その理想を少しずつ手放していってしまうのです。
「自分が本来大切だと思っていたこと」を伝えないでいるうちに、自分自身の考え方も変わってしまいます。「考えに合わせて生きる」のではなく、「生き方に合わせて考えを変える」ようになってしまう。こうして、家庭は「何となく仲良くしているけれど、誰も本当に成長していない」、いわば「ライトな家庭」になってしまいます。親の役割は、ただその場をなだめ、表面的な調和を保つことだけになってしまいます。
その背後には、しばしば「希望の欠如」があります。子どもに対する「もっと高い理想」や、「神がこの子に託している計画」への信頼ではなく、「とにかく問題が起きなければいい」という、非常に低い目標で満足してしまうのです。
4. カオス(混乱)状態の家庭
第四は、「カオス(混乱)状態の家庭」です。ここでは、客観的な価値も示されず、家族内の緊張や問題も、うまく扱われることがありません。つまり、「価値もなく、秩序もない」状態です。
このような家庭では、しばしばささいなことをめぐって激しい言い争いが起きる一方で、本当に重大な問題には、ほとんど向き合わない、ということが起こります。いわば「ノミを大砲で撃ち落とす一方で、ラクダは丸ごと飲み込んでしまう」ような、バランスを欠いた反応です。
多くの場合、このようなカオス状態の家庭の背景には、親自身の「傷ついた家族経験」があります。自分が育った家庭で受けた傷が癒やされないまま残っていると、「被害者だった人」が、知らないうちに「次の世代への加害者」になってしまうことがあります。幼いころに虐待を受けた人が、大人になって自分の子どもを虐待してしまう、といった悲劇です。
そこに、アルコール依存や不貞、その他さまざまな問題が重なると、家族はさらに深い混乱に陥ってしまいます。その意味でも、私たちは、自分の人生に存在する傷と向き合い、それを癒やしていくことがとても重要です。そうでなければ、自分が受けた傷を、そのまま次の世代に繰り返してしまうからです。
どの家庭にも当てはまる第四戒
もちろん、理想としては、私たちは皆、「バランスの取れた家庭」の一員となることを目指すべきでしょう。そのような家庭では、第四戒は、ある意味で自然に、半ば自発的に生きられます。しかし、現実には、多くの家庭は、先ほどの他の三つのタイプ――抑圧的、放任的、カオス状態――のどこかに位置していることが少なくありません。
大切なのは、第四戒が「理想的な家庭だけ」に与えられた掟ではない、ということです。第四戒は、あらゆる状況において、すべての人に与えられている掟です。傷ついた家庭、困難な環境の中でもなお、この掟は意味を持っています。
教会は、理想的な状況についてだけ語るのではなく、「複雑で、傷ついた現実」の中にも、福音を語り続ける使命を持っています。場合によっては、教会が慎重な判断のもとに、「夫婦の同居を一時的に中断した方がよい」と助言することさえあります。特に、子どもに大きな害が及んでいる場合、同居を続けることが、かえって危険であることがあるからです。
これは離婚を勧めることとは全く別の話です。結婚の絆に対する教会の教えを少しも弱めることなく、それでもなお、「具体的な状況の中で、子どもや当事者を守るために、一時的な別居が望ましい場合がある」と認めているのです。つまり、第四戒は、家庭が理想的でないときにこそ、いっそう重要になってくる掟なのです。
第四戒の土台は「親の完璧さ」ではない
第四戒は、「完璧な親」や「完璧な子ども」を前提としているわけではありません。この掟は、「親がどれほど徳の高い人か」「子どもがどれほど素直に応えているか」という条件の上に成り立っているのではないのです。
神は、子どもに対して「親を敬いなさい」と命じるとき、「親がどの程度の道徳的レベルか」によって、その命令の重さを変えたりはなさいません。もちろん、聖人のような両親のもとで育つなら、親を敬うことは、ずっと容易になるでしょう。しかし、そうでない場合でも、この掟はなお有効です。
同じように、親に対しても、神は「子どもがどれほど理想的か」にかかわらず、「子どもに自分を与えなさい」と求めておられます。たとえ子どもが反抗的であったり、期待とは違う歩み方をしていたとしても、親は、なおその子を愛し、責任をもって育てるように招かれています。
ここで大切なのは、「親も子も、それぞれの限界や傷を抱えながら、『それでもあなたは私の親であり、私の子である』と認め合うこと」です。「親は完全ではないけれど、それでも私の親だ」「子どもは問題を抱えているかもしれないけれど、それでも私の子どもだ」と言えることが、第四戒を生きる上での鍵です。
親から受けた恵みを見出すこと
多くの人は、子ども時代のつらい経験や、親から受けた傷によって、深く心を痛めています。そのような人にとって、「父と母を敬いなさい」という言葉は、とても重く、時に受け入れがたい命令に聞こえるかもしれません。
しかし、そのようなときこそ大切なのは、「親の欠点や過ちの向こう側に、神から受けた恵みを見つめること」です。どんなに問題の多い両親であっても、「自分がいまここに存在している」という事実には、大きな意味があります。いのちそのもの、育てられてきた過程の中で受けたさまざまな良いもの――それらを見出すことができるなら、過去の傷を別の形に変えていく道が開けていきます。
親を完全に理想化することも、逆に完全に否定してしまうことも、どちらも真理ではありません。必要なのは、「親の弱さと欠点を認めつつ、それでも自分は確かに多くの良いものを受け取ってきた」と言える地点まで、少しずつ心を歩ませていくことです。そのときに初めて、私たちは自分の人生を「和解と癒やしの道」へと方向転換させることができます。
これは、親だけでなく、子どもに対しても同じです。子どもの反抗や自己中心性、さまざまな問題行動に深く傷つけられた親にとっても、「それでもこの子は、私に託された神の子だ」と言い続けることは、非常に大きな挑戦です。しかし、そのようにして「赦しと忍耐の道」を選び取ることこそ、第四戒を親として生きる、具体的な形でもあります。
親子がたどる「成長のプロセス」
親子の関係には、ある種の共通したプロセスがあります。多くの子どもは、小さなころには両親を「ほとんど神様のように」見ています。「うちのお父さんは世界一」「うちのお母さんは誰よりも素晴らしい」と、無邪気に信じているのです。
しかし、やがて思春期になると、その「理想化された親のイメージ」は崩れ始めます。子どもは、親の欠点や弱さに気づき、そのことで失望したり、反発したりします。時には、実際には存在しない欠点さえも見つけ出してしまうほど、批判的になることもあります。
それでも、成長のプロセスが健全に進んでいけば、その後に「和解と受容の段階」が訪れます。そこで子どもは、「親は完全ではないけれど、それでも多くの良いものを与えてくれた存在だ」と、より現実的な視点から親を見つめることができるようになります。これは、第四戒を成熟した形で生きるための、一つの通過点だと言えるでしょう。
同じようなプロセスは、親の側にも起こります。多くの親は、子どもが生まれる前、「自分はこんな親になりたい」「子どもにはこう育ってほしい」と、理想的なイメージを抱きます。しかし、時間が経つにつれて現実とのギャップを感じ、子どもの反発や失敗、自分自身の限界に直面し、深い失望や挫折を経験することが少なくありません。
そこで必要なのは、「自分の親としての夢が思い通りに実現しなかったからといって、親であることをやめてしまうわけにはいかない」と受け止めることです。状況は変わっても、「子どものために自分を与え続ける」という召命そのものは、決して失われません。理想どおりではなくても、別の形でなお「子どものよりどころであり続ける」こと――それこそが、親として第四戒を生きることでもあります。
第四戒が指し示す最終的な行き先
親子が互いの限界を受け入れ、和解の道を歩むためには、ある決定的な理解が必要です。それは、「第四戒は最終的には神へと向かわせる掟である」ということです。
神こそが、すべての父性・母性の源です。真の「父」は神お一人であり、真の「子」はイエス・キリストです。私たちの家族の歴史も、最終的には「神の子として生きるように招かれている」という、大きな計画の中に置かれています。家族は、そのための準備の場であり、そこを通して、神が私たち一人ひとりに語りかけておられるのです。
この観点から見るとき、私たちは「親にすべてを期待すること」も、「子どもに自分のすべての満足を求めること」も、慎重に見直さなければなりません。親は神ではありませんし、子どももまた、私たちの心の空白を完全に埋めてくれる存在ではありません。親も子どもも、「神から託された大切な賜物」ですが、決して「神ご自身」ではないからです。
第四戒は、私たちを「親子関係を絶対化しないように」とも教えています。家族のきずなを大切にしつつも、最終的には「神の御心」「神との関係」こそが、人生の中心であることを忘れないようにと招いているのです。
傷と矛盾を、神の計画の中で受け止める
私たちの人生には、多くの矛盾や傷があります。家族の歴史の中にも、「なぜ自分にだけこんなことが起こったのか」と問いかけたくなる出来事が少なからず存在します。しかし、信仰の目で見るなら、私たちは次第に、「なぜ(なぜこんなことが)?」から「何のために(何の目的で)?」へと、問いを変えていくことができます。
教皇フランシスコは、こうした視点の転換についてしばしば語っています。「なぜ私にこんなことが起きたのか」という問いに閉じこもる代わりに、「神はこの出来事を、誰のために、どのような善のために用いようとしておられるのか」と尋ねるように、と招いているのです。
私たちの傷や試練は、そのまま「失敗」で終わる必要はありません。それらは、神の手に委ねるなら、「他者への愛と奉仕の可能性」へと変えられていくからです。自分が経験した苦しみを通して、同じ苦しみを味わっている人のそばに立ち、その人を理解し、支えることができる――そのとき、私たちの傷は、単なる過去の痛みではなく、「人を愛する力の源」にさえなり得ます。
このようにして、自分の人生を見つめ直すとき、私たちは、たとえ複雑で難しい状況の中にあっても、「親を敬い、子どもを愛する」という第四戒を、より深く、より自由に生きることができるようになっていきます。
家庭は聖化の場
第四戒を生きることは、単なる「家族関係のマナー」ではありません。それは、私たちが聖人へと成長していく道そのものです。家庭は、私たちが聖化されていく第一の場所なのです。
シラ書(集会の書)3章では、次のように語られています。
「主は、子どもたちのうちに父の威厳を確立し、母が子どもたちの上に持つ権利を定められた。父を敬う人は罪を償い、母を尊ぶ人は宝を積む人のようだ。父を敬う人は、自分の子どもたちからも喜びを受け、その祈りの日には聞き入れられる。父を大切にする人は、長生きする。主に従う人は、自分の母を慰める。」
ここで特に印象的なのは、「父を敬う人は罪を償う」という表現です。家庭の中で、親を敬い、互いの欠点を忍耐強く受け入れていくことは、そのまま「自分自身の罪の償い」となり、聖化の道となっていきます。
「隣人の欠点を忍耐強く耐え忍ぶこと」という古くからの徳目は、まさに家族生活にぴったり当てはまります。私たちは、互いの弱さを抱えながら、忍耐と赦しのうちに愛し合うよう招かれています。家族の中で病人や高齢者を世話することは、その最も具体的な形の一つです。
子どもが、自分の祖父母が家族の中で丁寧に世話され、大切にされている姿を見るとき、その子どもは言葉以上の教育を受けています。その姿は、どんな説教や小言よりも力強く、「人を敬うとはどういうことか」「いのちを大切にするとはどういうことか」を教えてくれるからです。
また、親が年老いた自分の父母を世話することは、その子ども自身にとっても、大きな霊的訓練になります。そこでは、忍耐、優しさ、自己犠牲、忠実さといった徳が、具体的なかたちで育てられていくからです。そのようにして、家族の中で互いを支え合うことは、私たちを多くの誘惑から遠ざけ、魂の救いへと導く道となります。
「迷惑をかけたくない」という思いをどう見るか
高齢になった方がよく口にする言葉の一つに、「私はできれば、子どもたちに迷惑をかけないまま、この世を去りたい」というものがあります。その思いの中には、確かに謙虚さや、子どもへの思いやりが込められているかもしれません。
しかし同時に、こう問い直すことも大切です。「もしかしたら、あなたは、子どもたちが『親を世話することで聖化される機会』を、自分で取り上げてしまってはいないだろうか」と。子どもたちにとって、年老いた親を支え、世話をすることは、重荷であると同時に、大きな恵みでもあります。それは、「自分中心の生き方」から離れ、「誰かのために自分を与えること」を学ぶ、かけがえのないチャンスでもあるのです。
もちろん、具体的な状況は家庭ごとに異なり、すべてを一律に語ることはできません。しかし、「誰にも迷惑をかけない人生こそ理想だ」という考え方が、必ずしも福音的ではない、ということは心に留めておく必要があります。私たちは互いに支え合い、互いの重荷を担い合うように招かれているからです。
家庭生活のただ中で聖人になる
私たちは時として、「自分が聖人になる場所は、家庭の外にある」と考えてしまいがちです。家族との関係は複雑で、うまくいかないことも多く、「ここではもう何もできない」と感じてしまうからです。その結果、「教会の活動に参加すること」や「ボランティアに取り組むこと」だけが、自分の聖化の場だと考えてしまうことがあります。
しかし、マザー・テレサはこう言いました。「世界を変えたいなら、まず家に帰って、自分の家族を愛しなさい。」
私たちの聖化の場は、何よりもまず、自分の家庭です。家族との関わりの中で、私たちは忍耐、謙遜、赦し、無償の愛を学びます。そこから逃げ出してしまうのではなく、そのただ中で神に自分をゆだねていくとき、私たちは、本当に深い意味で、聖人への道を歩み始めることができるのです。
家庭を「小さな教会」として生きる
カテキズム2205番は、次のように教えています。
「キリスト教家庭は、ペルソナの交わりであり、父と子と聖霊の交わりの反映であり、その姿のうちに像を結ぶ。家庭のいのちと愛における生殖と教育のわざは、創造主のわざのしるしである。家庭は祈りといけにえのうちに、キリストの祈りといけにえにあずかるよう招かれている。日々の祈りと、神のことばの朗読は、家庭のうちに愛を強める。キリスト教家庭は、福音を告げ知らせる共同体であり、宣教する共同体である。」
家庭は、単なる「同居の場」ではありません。そこは、「神のいのちが息づく、小さな教会」です。神のことばを共に聞き、祈り、感謝の祭儀(ミサ)にあずかることで、家族の中に愛のきずなが育てられていきます。
ときに、私たちは「家族にはまず、道徳的にまっすぐな人間になってほしい」「努力家で、礼儀正しく、他人に親切であってほしい」と願います。これ自体は良いことですが、もしそれだけにとどまるなら、信仰の核心には届いていません。単なる「道徳教育」だけでは、人の心は長続きしないからです。
本当に必要なのは、「なぜ善を行うのか」「なぜ人を愛するのか」を教えることです。つまり、「人生の意味」「自分が神からどのような使命を受けているのか」を知らせることです。神が一人ひとりをどれほど深く愛し、具体的な計画と召命を与えてくださっているか――それを伝えることこそ、家庭教育の中心であるべきです。
もし私たちが、子どもに対してただ「こうしなさい」「ああしてはいけない」と道徳的な義務だけを教え、神との出会いを伝えなければ、いつかその子どもは疲れ果ててしまうでしょう。ある程度の間は、「義務感」だけでも頑張れますが、長い目で見れば、それだけでは心がもたないのです。必要なのは、「走っている先に、何を見ているのか」というビジョンです。
「何のために走っているのか」を知ること
ここで、一つのたとえ話を紹介します。イギリスなどの英語圏では、伝統的な娯楽として「キツネ狩り」が行われてきました。まずキツネを放ち、少し時間をおいてから、猟犬の群れが一斉に走り出します。最初のうち、すべての犬が一緒になって吠え、走り、垣根を飛び越え、川を渡っていきます。
しかし時間がたつと、犬たちは一匹、また一匹と、次々に群れから離れていきます。最後まで走り続けてキツネに追いつくのは、ほんの数匹だけです。では、なぜその犬たちだけが最後まで走り続けることができたのでしょうか。
若くて体力があったからでしょうか。鍛えられていたからでしょうか。そうではありません。決定的な違いは、「最初にキツネを実際に見たかどうか」です。最初にキツネが飛び出すのを、この数匹の犬だけがしっかりと見ていました。だから、彼らは「自分が何を追いかけているのか」を知っていたのです。一方、他の犬たちは、ただ「周りが走るから走り、吠えるから吠え、飛び越えるから飛び越えていた」だけでした。
しばらくの間は、みんな一緒に走ることができます。しかし、やがて疲れが出てくると、「ところで、お前は何を追いかけているんだ?」という問いが湧いてきます。そのとき、「実は何も見ていない」「ただ皆についてきただけだ」と気づいた犬から、次々に足を止めてしまうのです。
このたとえは、私たちの信仰生活や家庭教育にもよく当てはまります。もし私たちが、子どもに対して「こうするべきだ」「ああしてはいけない」とだけ言い続け、肝心の「神との出会い」「人生の意味」を伝えなければ、いつか彼らは疲れ果ててしまうでしょう。「自分はいったい何のために頑張っているのか」が見えないからです。
だからこそ、家庭には「祈り」と「神のことば」が必要です。家族が共に祈り、聖書のことばを聞き、ミサにあずかるとき、子どもたちは「自分が何のために生きているのか」「誰に愛されているのか」「どこへ向かっているのか」ということを、少しずつ体験的に知っていきます。
家族の召命に気づくこと
もし家庭がこのような場所であるなら、そこは単に「日常生活を送る場」以上の意味を持ちます。家庭は、「そこに生きることで聖人になっていく場所」であり、「互いを通して神の愛を学ぶ学校」でもあります。
私たちは、家庭の中で、互いの限界を抱えながらも愛し合うことを学びます。忍耐、赦し、謙遜、奉仕――これらはすべて、家族との日々の関わりの中で、少しずつ身についていく徳です。第四戒は、そのような家庭生活のただ中で、「ここがあなたの聖化の場なのだ」と教えてくれます。
神は、私たちが「家庭の現実から逃げること」によってではなく、「家庭の現実を、信仰を持って受け止めること」を通して、私たちを聖人へと導いてくださいます。そこには、思い通りにならない多くのことがあるでしょう。しかし、それらすべてが、神の手の中で、私たちを練り、清め、深めていく道具となりうるのです。
第四戒が示す「愛の順序」
カテキズム2197番は、第四戒について次のように教えています。「第四戒は、第二の石板の先頭に置かれている。神は、ご自分の後に、私たちにいのちを与え、神を知らせてくれた両親を敬うことを望まれた。」
十戒が二つの石板に記されていたことを思い起こしてみましょう。第一の石板には、神との関係に関わる最初の三つの掟が書かれていました。第二の石板には、「隣人との関係」に関する残りの七つの掟が書かれていました。その第二の石板の先頭に置かれているのが、第四戒――「父と母を敬いなさい」です。
これは、「愛の順序」を示しています。まず第一に神を愛し、敬うこと。そのすぐ次に来るのが、「いのちの源として自分をこの世に送り出してくれた両親を敬うこと」です。そこから、他の人々――教会や社会の中で、自分に対して権威を持つ人々――への敬意が広がっていきます。
第四戒は、単に「親子関係」だけに関わる掟ではありません。それは、広い意味で、「神が私たちの善のために立ててくださったあらゆる権威」に対する姿勢をも形づくります。家庭の中での親、教会の中での牧者、社会の中での指導者――それぞれが、神から託された役割を担っているのです。
親は「神の父性のサクラメント」
このような意味で、両親は「神の臨在のサクラメント(しるし)」だと言うことができます。サクラメントとは、「見えない恵みを、見えるしるしを通してあらわすもの」です。パンとぶどう酒が、キリストのからだと血の現存をあらわすように、父と母もまた、「見えない神の父性」を、見えるしかたちで子どもに示す役割を担っています。
私たちは、神を「父」とお呼びします。そして、血のつながった両親のことも「お父さん」「お母さん」と呼びます。同じ言葉が、人間の親と神に対して用いられているという事実は、非常に深い意味を持っています。
イエスは福音書の中で、「地上のだれをも『父』と呼んではならない」(マタイ23・9参照)と言われました。しかし、教会はこれを「文字どおりの禁止」としてではなく、「霊的な意味」で理解してきました。つまり、「地上のどんな権威者も、神の父性に取って代わるような絶対的存在となってはならない」ということです。
親は、自分の権威を絶対化したり、「子どもの心を完全に支配できる」と錯覚してはなりません。彼らの権威は、「神の父性を映し出す参加的な権威」であって、「神そのもの」ではないからです。私たちの父性や母性は、神の父性にあずかる「類比的なもの」であり、その源泉は常に神ご自身にあります。
聖トマス・アクィナスは、「父」という名はまず神に本質的に属し、人間には「神の父性にあずかる限りにおいて」二次的に属すると教えました。私たちの父性・母性は、神の父性の「影」とも言えます。聖ヨセフの生涯を描いたある小説には、『父の影』という美しい題名がつけられていますが、まさにそれは、「ヨセフはイエスにとって、地上における御父の影であった」という意味です。同じように、すべての親は、自分の子どもにとって「天の父の影」として生きるよう招かれています。
神のいつくしみが、私たちの弱さを超えて働く
親としての責任について考えるとき、私たちはしばしば、自分の至らなさや失敗に圧倒されそうになります。「私は本当に、子どもにとって良い親だったのだろうか」「もっとできることがあったのではないか」と自問自答したくなることもあるでしょう。
しかし、そのようなときこそ、私たちは「神の摂理(プロビデンス)」に目を向ける必要があります。神は、私たちの弱さや罪をも越えて働かれる方です。イザヤ書49章15節には、こうあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしはあなたを決して忘れない。」
たとえ地上の父性・母性が傷ついていたり、十分でなかったとしても、その上に「決して裏切らない神の父性」がある――この事実は、親にとっても子どもにとっても、大きな慰めです。親は、「自分の子育てだけがすべてを決めるのではない。神ご自身が、この子を誰よりも深く愛し、導いておられる」という事実に信頼することができます。
同時に、子どももまた、「自分は両親から十分に愛されなかったのではないか」「自分は望まれない子どもだったのではないか」という深い傷を、神の前でゆっくりと癒やしてもらうことができます。たとえ人間的なレベルで「望まれた子どもではなかった」と感じていたとしても、神の前では、私たちはすべて「永遠の昔から望まれ、愛されていた子ども」です。神は、私たち一人ひとりを、偶然ではなく、愛の計画のうちに選び、いのちを与えてくださいました。
神は、人間の長所だけでなく、短所や失敗さえも用いて、ご自分の計画を進めることができる方です。その意味で、私たちのいのちは、「人間の思惑や計算の結果」ではなく、「神の望みと選びの実り」であると言えます。
第四戒への招き:回心と和解の道
こうして第四戒を見つめ直すとき、私たちは皆、ある共通の招きを受け取っていることに気づきます。それは、「回心の招き」です。子どもは、「よりよい子どもになるように」、親は「よりよい親になるように」、それぞれに回心へと呼びかけられています。
子どもは、イエスに倣って、「御父を愛する子」として生きることを学びます。イエスは、人としてナザレの家でマリアとヨセフに従順であっただけでなく、何よりも、「天の父に対する完全な従順」の模範を示されました。そのイエスに倣って、私たちも「親を敬い、神を父として信頼する子ども」として成長するよう招かれています。
親は、「憐れみ深い父・母」となるように招かれています。放蕩息子のたとえ話に登場する「父親」のように、たとえ子どもが遠く離れていっても、なおその帰りを待ち続け、赦しと受容をもって迎え入れる心を持つようにと招かれているのです。もちろん、これは簡単なことではありません。しかし、神ご自身が「憐れみ深い父」であるように、私たちもまた、少しずつその姿に似せられていくよう招かれています。
そのようにして、親も子もそれぞれに回心の道を歩んでいくとき、第四戒は単なる「義務のリスト」ではなく、「聖化への道」「家庭が小さな聖人学校となる道」へと変えられていきます。そこでは、神の恵みが、私たちの弱さを包み込み、ゆっくりと形作ってくださいます。
第四戒――「父と母を敬いなさい」。この掟は、単に昔の文化や家制度を守るためのものではありません。それは、私たちが自分のいのちの根を見つめなおし、神の父性に信頼しながら、互いに赦し合い、支え合い、聖人への道を共に歩んでいくための、深くて豊かな招きなのです。