十戒

第五戒「殺してはならない」

2026年3月17日





第五戒「殺してはならない」

第五戒「殺してはならない」

・動画リンク:https://youtu.be/KJMwP9XKzrM
・チャンネル名:En ti confío(エン・ティ・コンフィオ)
・言語:スペイン語(原文の講話を日本語に翻訳したものです)

1. 「殺してはならない」の土台にあるもの

第五戒、「殺してはならない」。まず最初に、この戒めの土台になっている聖書と教会の教えをしっかり押さえておきたいと思います。

この「殺してはならない」という言葉の第一の土台は、神がモーセにお与えになった十戒です。出エジプト記に記されている十戒の中に、非常にはっきりとした表現で「殺してはならない」という言葉があります。

さらに主イエスは、福音書の中でこの十戒の言葉をいっそう深めておられます。マタイ福音書5章21–22節で、イエスはこう言われます。「あなたがたも聞いているとおり、『殺してはならない。人を殺した者は裁きを受けねばならない』と言われている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に対して怒る者は誰でも裁きを受けねばならない」。

イエスは単に「殺人」を禁じるだけではなく、その根にある怒りや憎しみにまで踏み込んでおられます。「殺してはならない」という戒めの土台をよく理解するために、『カトリック教会のカテキズム』のとても重要な一節を見てみましょう。2258番です。

「人間の生命は、その初めから神の創造の働きの実りであり、常に創造主との特別なかかわりを保つので、聖なるものである。神だけが、生命の初めから終わりまでの唯一の主である。いかなる状況においても、無辜の人間の生命を直接奪う権利を自らに帰することはできない。」(カトリック教会のカテキズム2258)

とても力強い表現です。カテキズムは、「人間の命は聖なるものである」とはっきり言います。なぜ命は聖なるものなのでしょうか。それは、神によって創造されたものだからです。「聖なる」という言葉は神に属するものを指します。命は、始めから神の創造の働きによって与えられたものであり、その存在の初めから神との特別な関係のうちにあるのです。

私たちはこう言います。父と母が新しい命を受け止めるとき、神はその瞬間に魂を創造し、注ぎ入れてくださる、と。そこには、神と人間との共同作業があります。そのため、私たちは単に「再生産(reproducción)」とは言わず、「共同創造(procreación/プロクリエーション)」という言葉を使います。動物は「再生産」しますが、人間は神と共に「共同創造」を行うのです。

人間の生命の始まりには、必ず神の創造の働きがあり、神が魂を創造して注ぎ入れてくださいます。受精の瞬間、つまり精子が卵子を受精させるその場に、神の創造的な介入があるのです。魂は両親から「受け継がれる」ものではなく、神によって直接創造されます。

だからこそ、カテキズムの言葉は非常に力強いのです。「人間の生命は聖なるものだ」。それは、命が最初から神の創造の行為の実りであり、神だけがその初めから終わりまでの唯一の主であるからです。

ここから当然の結果が導かれます。命の唯一の主人は神であって、私たちではありません。命は私たちの所有物ではなく、私たちの意思を超えたところにあります。自分の存在について、私たちは「事前に許可を求められて」生まれてきたわけではありません。私たちは皆、神の自由な決断によって存在しています。命は自分で「選んだ」ものではなく、「与えられた」ものです。だから、命は私たちの意思以前の、はるかに高いところにある現実なのです。

2. カインとアベル ― 最初の殺人の物語

ここまでが土台です。ここからは、聖書の歴史に目を向けてみましょう。聖書は、命に対する最初の罪、カインが弟アベルを殺した出来事を語っています。カテキズム2259番は、この出来事を次のように説明します。

「聖書は、兄カインの手によるアベルの殺害の物語の中に、人類の歴史の始まりから、人間の中に潜む怒りと妬み(原罪の結果)を示しています。人間は自分の同胞に対する敵となりました。神はカインに『あなたは何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる』と言われることによって、兄弟殺しの悪を明らかにされます。」(要旨)

この最初の殺人は、単なる一時的な怒りの爆発で起こったわけではありません。内面で長い時間をかけて育っていった罪が、ついに外にあふれ出た結果として起こったのです。カインの心の中では、妬みから始まり、それが怒りになり、恨みになり、最後には憎しみと殺人へとつながっていきました。

神がアベルのささげ物を受け入れ、カインのささげ物を喜ばれなかったとき、カインは弟アベルに強い妬みを抱きました。聖書は、「カインは激しく怒って顔を伏せた」と描写します。そこからすべてが始まります。

興味深いのは、神がカインの心の中にあるその妬みと怒りを見抜き、彼を正そうとされたことです。「罪が戸口で待ち伏せしている。しかし、お前はそれを支配しなければならない」と、神はカインに呼びかけられました。神は、嫉妬と妬みにとらわれているカインを憐れみ、助けようとされたのです。

しかしカインは、その神の戒めと助言を受け入れませんでした。心はだんだんと頑なになり、妬みは恨みへ、恨みは憎しみへと変わり、そしてついには兄弟殺しという行為に至ります。カインがアベルを殺したのは、「たまたまその日機嫌が悪かったから」ではありません。彼は、手で弟を殺す前に、すでに心の中で弟を殺していたのです。

ここから、とても重要な教訓が見えてきます。心の中で戦わずに放置した罪は、いずれ外にあふれ出ます。内側で対決しなかった罪は、必ず外側の現実に破壊をもたらします。

3. イエスが示す「殺してはならない」の深さ

旧約における「殺してはならない」の教えの上に、イエスはさらに深い理解を与えてくださいます。山上の説教の中でイエスは、この戒めを想起させながら、それに「怒り」「憎しみ」「復讐心」をも拒むようにと教えられます。

イエスは、弟子たちに「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」、「敵を愛しなさい」と求められます。敵をも愛し、迫害する者のために祈ることこそが、「殺してはならない」という戒めを本当に守る道なのだと示されます。

言い換えると、怒りや復讐心を克服しない限り、私たちは第五戒に倒れてしまう危険から自由ではないのです。「恨みをどう乗り越えるのか?」――その答えは、「敵を愛すること」です。「敵を愛し、あなたを憎む者のために祈りなさい」と、イエスは教えられます。

こうして見ていくと、第五戒は単に「殺さない」という消極的な命令だけではなく、実は「愛するように」という積極的な招きでもあることがわかります。命を愛し、隣人を愛し、無関心を越え、軽蔑や侮辱の誘惑を乗り越えることが求められているのです。

旧約のカインは神に、「わたしは弟の番人なのでしょうか」と問い返しました。その問いに対して、イエスは明確に答えておられます。「そうだ、あなたは弟の番人である。あなたは隣人を愛するように召されている」と。隣人を愛し、あわれみをかけ、ゆるすことができなければ、私たちは第五戒に対して常に脆い存在のままです。

要するに、イエスが教えてくださるのは、「殺してはならない」という戒めの成就は「愛」にあるということです。命は神の賜物であり、隣人も神からの賜物です。その命と隣人を心から愛することだけが、憎しみが殺人へと変わってしまうことを防ぐ道なのです。

4. 具体的なテーマとカテキズムの教え

ここからは、『カトリック教会のカテキズム』に基づきながら、「第五戒」に関わる具体的で実践的なテーマをいくつか見ていきます。

4-1. 正当防衛について

「殺してはならない」と聞くと、正当防衛との関係が気になるかもしれません。自分の生命を愛し守ることも、道徳の基本的な原理の一つです。自分の生命を守る権利を行使することは正当です。

カテキズムは、正当防衛についてこう教えます。ある状況では、正当防衛は「権利」であるだけでなく、「義務」となることさえあります。特に、他者のいのちの保護をゆだねられている人にとってはそうです。例えば、父親は、子どものいのちを守る責任があります。その場合、自分の身を守る権利を放棄することはできません。

カテキズム2258番が述べるように、「無辜の人間の生命を直接奪う権利は誰にもない」と言うとき、「無辜の人間」という前提があります。理不尽な攻撃者に対する防衛行為は、状況によっては認められます。ほかに手段がない場合に、攻撃者のいのちを奪ってしまう結果になったとしても、それは「正当防衛」として道徳的に許される場合がある、と教会は理解しています。

4-2. 死刑について

次に、死刑の問題です。カトリック教会の教えでは、死刑についての理解が長い時間を通して発展してきました。聖書や伝統の中では、一定の条件のもとで国家が死刑を科す権利を認めていた時代がありました。例えば、イエスがピラトに「あなたは上から与えられていなければ、わたしに対して何の権限も持たなかったはずだ」と言われた場面などからも、そのことがうかがえます。

しかし、現代社会においては状況が大きく変わっています。現代の国家には、理不尽な攻撃者から社会を守るために、死刑に頼らなくても済むさまざまな手段があります。加えて、刑罰の目的の一つは、加害者が悔い改め、人生をやり直す機会を与えることです。その意味で、死刑は加害者にとって、地上で新しい人生を始める可能性を完全に閉ざしてしまうものです。

こうした現代の状況を踏まえて、カトリック教会は、今の世界において死刑が本当に必要とされる状況は事実上存在しないと判断するに至りました。現代の社会には、死刑以外の手段で社会を守ることができるからです。そのため、教会は死刑に対して「明確なノー」を表明しています。

たとえばアメリカでは、死刑が合法であるにもかかわらず、多くのキリスト者が死刑に反対する運動を行っています。その中の一つの運動は、「カインを殺してはならない(No matarás a Caín)」という名前を掲げています。聖書の中で、カインがアベルを殺した後、神は「誰もカインを殺してはならない」と言って、彼にしるしを付けられました。このことは、「最終的な裁きは神に属するのであって、人間が神に成り代わってはいけない」というメッセージを示しています。

4-3. 殺人に対する現代社会の感覚とその限界

正当防衛や死刑のような難しい問題はあるものの、今日の社会では一般的に、殺人に対する道徳的な感覚は比較的はっきりしていると言えます。多くの人は、人を殺すことは重大な悪であると感じています。もちろん、世界の中には殺人事件の非常に多い国も存在しますが、それでも世論は多くの場合、それを恐ろしく痛ましいことだと受け止めています。

しかし残念ながら、同じ「命」にかかわる問題でありながら、社会全体の感覚が大きく鈍ってしまっている分野もあります。その代表的な例が「中絶」です。

4-4. 中絶と「時代の罪」

中絶の問題について考えるとき、多くの人がまるで理性が曇ってしまったかのような状態に陥っていることに気づかされます。これを、ある意味で「時代の罪」と呼ぶことができます。

「時代の罪」とは、その時代を生きている多くの人が、それを罪だと認識できなくなってしまっているような罪のことです。例えば、かつて世界の多くの地域では「奴隷制度」が当たり前のものとして存在していました。その時代を生きる人々は、多くの場合、それを深刻な不正として認識していませんでした。まるで「集団的な盲目状態」に陥っていたかのようです。

今日の中絶も、それと似たような状況にあります。人間の命に関わる重大な問題であるにもかかわらず、多くの人がそれを当たり前の権利であるかのようにとらえてしまっています。

カテキズム2270番は、この点について非常に明快に語ります。

「人間の生命は、その受胎の瞬間から、絶対的に尊重され、守られなければならない。受胎の瞬間から、人間は人格としての権利を持つべきであり、その中には、いかなる無辜の人間にも属する侵すことのできない生命の権利が含まれる。」(カトリック教会のカテキズム2270、要旨)

人間のいのちは、受胎の瞬間から「人格」として尊重されるべきものです。途中から突然「人格」になるのではありません。受胎の瞬間から、すでに固有のDNAが完全に形づくられており、その人がこれからどのように成長していくかという情報はすべてそこに記されています。そこから先の成長は「質的な飛躍」ではなく、「量的な発展」に過ぎません。

工場の生産ラインで車を組み立てる例とは全く違います。車の場合は、外からさまざまな部品を後から付け足していかなければ完成しません。しかし、人間の場合は、受胎の瞬間にすでに「必要なものはすべて内側に備わっており、それが成長していく」だけです。だから、人間のいのちは受胎の瞬間から「人間のいのち」であり、「人格」として尊重されるべきなのです。

残念ながら、中絶に関しては社会全体が「理性の食い違い」、あるいは「集団的な盲目状態」に陥っていると言わざるを得ません。将来、ある程度の時間がたったとき、人々はきっとこう振り返るでしょう。「かつて、こんなにも当たり前のように中絶が行われていた時代があった」と。そして、その時代の人々が、どれほど大きな矛盾と不正の中に生きていたかに気づくことになるでしょう。

4-5. 中絶に対する教会の厳しい警告

教会は、中絶の重大さを示すために、特別な教会法上の罰、すなわち「破門」というペナルティを定めています(カテキズム2272参照)。ここで大切なのは、これは「中絶の罪が他の殺人よりも重いから」という意味ではない、ということです。父親を殺すこと(親殺し)も、もちろん極めて重大な罪です。

しかし、親殺しに対しては一般に強い道徳的拒否感があるのに対し、中絶については、社会全体がそれほど深刻に考えていないという現実があります。その「集団的な麻痺状態」に対して、教会はあえて破門という強いペナルティを設けることで、「これは重大なことなのだ」と大きな警鐘を鳴らそうとしているのです。簡単に中絶ができてしまう現代社会にあって、人々がその重大さを忘れてしまわないようにするための、教育的なしるしでもあります。

4-6. 出生前診断とその心のあり方

カテキズムは、中絶に関連して「出生前診断(prenatal diagnosis)」にも言及しています。出生前診断そのものは、必ずしも悪いことではありません。しかし、その背後に「問題が見つかったら中絶するつもりで検査を受ける」という心のあり方があるなら、それはすでに中絶への内的な同意・条件付きの意思表示であり、道徳的問題をはらんでいます。

「とりあえず検査だけしておいて、問題がなければ産むけれど、もし何か障がいが見つかったら中絶するつもりだ」という姿勢は、たとえ実際に中絶という結果にならなかったとしても、心の深い部分では「命を条件付きで受け入れている」状態です。このような心のあり方は、第五戒に反する深刻な問題を含んでいます。

現実には、出生前診断の普及によって、ダウン症など特定の障がいを持つ子どもたちが、社会全体からほとんど姿を消しつつある地域もあります。まるで一種の「選別」や「浄化」のように、最も弱い命が排除されてしまっているのです。

4-7. 生命倫理と「治療目的」の名の下の乱用

カテキズムはさらに、治療目的を名目にした胚(はい)の乱用にも触れています(2275番)。今日のバイオテクノロジーでは、人間の受精卵から「万能細胞(幹細胞)」を取り出し、さまざまな病気の治療に用いる研究が行われてきました。

しかし、人間は「薬」として使われる対象ではありません。たとえどれほど高尚な治療目的があったとしても、そのために人間の胚を意図的に犠牲にすることは許されません。「目的が良ければ、どんな手段を使っても良い」という考え方は、キリスト教の倫理には反します。

同様に、体外受精の過程で多数の受精卵を作り、その中から「選別」して一部だけを移植し、残りは廃棄してしまうという現実があります。「子どもを授かるために」行っていることであっても、その過程で多くの人間の胚が意図的に放棄・廃棄されている事実を無視することはできません。治療目的の名の下に、決して正当化されない命の犠牲が払われているのです。

5. 安楽死と「死なせること」と「死ぬこと」の違い

次に、「安楽死(ユーテナジア)」について考えてみましょう。自然に「死ぬこと」と、意図的に「死なせること」の間には、決して埋めることのできない大きな違いがあります。

カテキズム2277番は、安楽死について次のように述べています。

「どのような動機や手段によるものであれ、安楽死とは、病人や末期患者の生命を終わらせることを意図して行われる行為や不作為のことであり、道徳的に許されない。苦しみを除くために、死を直接意図して引き起こす行為や不作為は、重大な不正であり、人間の尊厳および生ける神への尊敬に反する。」(要旨)

ここで教会は、安楽死を明確に否定します。しかし同時に教会は、「延命治療の名の下の行き過ぎた医療(いわゆる〈過剰医療〉や〈治療のむごさ〉)」もまた問題であると認めています。あらゆる手段を尽くして、ほんのわずかの時間を延ばすために、患者に過重な負担や苦しみを負わせることは、必ずしも義務ではありません。

例えば、治癒の見込みのない末期がんの患者に対して、極めて侵襲性の高い治療を行い、数か月だけ延命できる可能性があるとしても、そのために患者が大きな苦しみを強いられるなら、その治療を拒否することは道徳的に認められます。これは「安楽死」ではなく、「不相応な医療行為を控える」という選択であり、キリスト者としても正当な判断になり得るのです。

一方で、「水分や栄養の提供を止める」「過度に強い鎮静を与えて意図的に死期を早める」といった行為は、意図として「死なせること」を目指している場合、安楽死の範疇に入ります。死を「早めること」を意図して行う行為や不作為は、たとえ表向きは「苦しみを減らすため」と説明されていても、第五戒に反する深刻な問題を含んでいます。

また、現代医療では「緩和ケア」や「鎮静」が広く用いられています。本来、緩和ケアは大変価値あるものであり、患者の苦しみを和らげ、その人らしい最期を迎えるのを助けるための尊い医療です。しかし、現場の実感としては、時に「もうすぐ亡くなるはずだ」という前提で、回復の可能性をあまり考えずに、ほぼ「死を前提とした鎮静」として使われてしまう危険もあります。

回復の見込みがもはやなく、他に苦しみを和らげる手段がない場合に行われる「終末期の深い鎮静」と、まだ他に手段がある段階で「とにかく眠らせてしまおう」という意図で行われる鎮静とは、大きく異なります。後者は、安楽死に近づいてしまう危険があり、慎重な識別が必要です。

6. 自分の健康を大切にすることも第五戒の一部

カテキズムは、「自分自身の健康を大切にすること」も第五戒に含まれると教えています。生命と身体の健康は、神から託された貴い賜物であり、適切に世話をする責任があります。

節制の徳は、食事、飲酒、喫煙、その他の生活習慣において、行き過ぎを避けるように私たちを導きます。スピードの出し過ぎや無謀運転なども、第五戒に反する行為になり得ます。実際、「危険運転」や「無謀運転」が、どれほど多くの命を奪っているかを考えるとき、それが単なる「軽い不注意」では済まされないことがよく分かります。

自分の健康を大切にせず、無茶な生活を続け、その後でジムなどに通って「帳尻合わせをしようとする」という今風の生き方も、よく考えてみる必要があります。より健全なのは、日々の生活の中で節度とバランスを大切にし、神から預かった体を丁寧に扱うことです。

7. 戦争と平和 ― 第五戒のもう一つの大きな領域

第五戒に深く関わるもう一つの大きなテーマが「戦争」です。現代のニュースを見ても、戦争がもたらす悲劇はあまりにも大きいことが分かります。1人の兵士の死の背後には、その家族や友人たちの計り知れない涙があります。

カテキズムは、特定の条件のもとで「防衛のための戦争」が道徳的に認められ得る場合があることを説明します(2309番参照)。たとえば、ヒトラーが他国を侵略したとき、その国が自衛のために戦う権利がある、というような状況です。

しかし、教会は同時に、「すべての市民と政府は、戦争を避けるために最善を尽くさなければならない」とも教えています(2308番)。戦争は一度始まれば、その結末を予測することは非常に困難です。たとえ最初は「正当な防衛」の名の下に始まったとしても、結局は多くの無辜の人々が苦しみ、犠牲となることが少なくありません。

戦争の背後には、しばしば不正、ナショナリズム、イデオロギー、権力欲、武器産業の利害など、さまざまな要因が絡み合っています。また、軍備拡張競争や、大量の武器が世界中に出回っている現実も見過ごすことはできません。「武器は悪魔が装填する」というようなことわざがあるほどで、武器があふれた社会は、いつ爆発するか分からない危うさを内包しています。

カテキズムはさらに、「戦争においても道徳的な限界がある」と教えます。その中でも特に重大なのは、「民間人への意図的な攻撃は決して許されない」という原則です。どれほど軍事的な目的があるとしても、非戦闘員である一般市民を直接の標的とすることは、絶対に許されません。

また、捕虜や負傷兵に対する虐待も、第五戒に明確に反する行為です。敵であっても人間であり、その尊厳が守られなければなりません。

8. 良心の異議申立て(良心的拒否)

戦争や暴力、命にかかわる不正に対して、キリスト者は時に「良心に基づく異議申立て(良心的拒否)」を行わざるを得ない場合があります。つまり、「自分はその行為に加担することはできない」と、はっきりと拒否することです。

たとえば、中絶を行うよう求められている医師が、「自分はそれを行うことができない」と良心に基づいて拒否すること。あるいは、中絶薬を販売することに良心の痛みを覚える薬剤師が、「自分はそれに協力できない」と言うこと。これは、第五戒への忠実さから生まれる、重要な証しです。

同じように、戦争においても、明らかに不正な命令に対して「自分はそれを実行できない」と言わなければならない場面があるかもしれません。「上官から命令されたから」という理由で、良心の声を無視することは許されません。神の前に立つとき、最終的な責任は一人ひとりの良心にあります。

この点を描いた映画として、『Vidas ocultas(邦題未定/英題:A Hidden Life/邦訳すれば「隠れた生涯」)」という作品があります。2019年の映画で、オーストリアの農夫であり殉教者でもあるフランツ・イェーガーシュテッターの生涯を描いています。彼は、ヒトラーへの忠誠宣誓と軍務を拒否し、その結果として殉教の道を歩みました。「自分にはそれをすることができない」という一点において、彼は最後まで良心に忠実であろうとしたのです。

同じく、メル・ギブソン監督の映画『ハクソー・リッジ(原題:Hacksaw Ridge、邦題「沈黙の丘」など各国で異なる)』も、暴力に対して良心的拒否を貫いた一人の兵士の物語として知られています。これらの映画は、「殺してはならない」という戒めに対して、どのように具体的な生き方で応答し得るのかを、強い印象とともに示してくれます。

9. 「殺してはならない」から「命を愛し、敵をも愛する」へ

ここまで見てきたように、第五戒「殺してはならない」は、単に「人を殺さないように」という最低限のラインを示すだけではありません。それは、命を尊び、隣人を愛し、敵にさえも憎しみではなく愛で応答できるようにという、イエスからの大きな招きでもあります。

イエスは「平和の君」と呼ばれます。キリストに従う私たちは、「平和の子ども」として、この世界の中で命を守り、和解とゆるしを選び取っていくように招かれています。

キリスト教が「命の尊厳」をどこまでも守ろうとする姿勢は、多くの人にとって、「この教会には何か真実がある」と感じさせる強い証しになっています。命を守るという一点においても、キリストが告げ知らせた福音の光がどれほど力強いものであるかが表れているのです。

最後に、栄光唱でこの講話を締めくくりたいと思います。

栄光は、父と子と聖霊に。初めにそうであったように、今もいつも世々に。アーメン。